例えば、こんな書き出しはどうでしょうか。
それはさておき。
Takumar 58mm F2(タクマー58mm F2)は、旭光学工業が1957年に発売した最初の「アサヒペンタックス」の標準レンズです。この初代アサヒペンタックスは、現在は後継機種と区別するため「アサヒペンタックスAP」とも呼びます。アサヒペンタックスAPは、クイックリターンミラーを実現したアサヒフレックスⅡB、同ⅡAの後、マウントをプラクチカマウント(M42マウント)に改め、ファインダーに国産機としては2番目となるペンタプリズム(ペンタゴナル・ダハ・プリズム Pentagonal dach-prism =“五角形の形状を持つ屋根型のプリズム”の意)を採用してアイレベルでの撮影を可能とし縦位置撮影を容易にした35mm判一眼レフです。ただし、当機発売から少し後よりしばらく、“一眼レフ”はウェストレベルファインダーのものを、ペンタプリズム搭載機は“一眼ペンタレフレックス”、略して“一眼ペンタレフ”や“ペンタレフ”と呼んで区別された時期がありました。
フィルター径は46mm、先端からマウント面までの長さ33.5mm、最大外径54.5mm。質量は公称160gですが、手持ちの個体(シリアルナンバー 15万3千2百台)は186gあります。プリセット絞りで最小絞りはF22、絞り羽根は10枚、最短撮影距離は60cmよりわずかに近く寄れます。マウント面側にはプラクチカマウントの雄ネジがあるのみで、カメラボディ側との連動機構のようなものは全く何もないので、あっけないほどすっきりした佇まいです。レアなレンズではないはずですが、探すと意外に見つかりません。
レンズ構成は4群6枚。最前面の第1群は被写体に凸面を向けた凸メニスカスの単エレメントで正のパワー、結像面側に凹面を向けた第2群は凸メニスカス・凸レンズ・凹レンズの3枚を接合して群全体では負のパワーを持ち、絞りを挟んで、第3群は被写体側に凹面を向けた、かなり厚みのある凹メニスカスの単エレメントで負のパワー、そして結像面に最も近い第4群は被写体側に凸面を向けた平凸レンズで正のパワーを持ちます。つまり、このレンズは4つの群のパワー配置を「正負負正」(凸凹凹凸)とした対称型の構成を採っています。
旭光学は発売当時、
(『科学写真便覧 上 新版』は Takumar 83mm F1.9 も、p.270に
では、アサヒカメラ1957年9月号の第2回「ニューフェース診断室」より、Takumar 58mm F2(シリアルナンバー 132295)の評価を見てみます。担当は浮田祐吉(機械試験所)、木村伊兵衛、小穴純、貫井提吉の四氏です。
測定結果では、58mmを公称しながら実際にはほぼ60mmという焦点距離の長さが目を引きます。また、「画面中心が最良となるピント面」と「画面全体が平均的に最良となるピント面」が、開放時・F5.6時ともに一致していることから、像面の平坦性はかなり良さそうと推察できます。なお、歪曲収差は、この当時のニューフェース診断室は現在のニューフェース診断室よりかなり厳しく、許容範囲を +1%(糸巻き型)~ -2%(タル型)の範囲に置いていました。
このニューフェース診断室の裏側で、“診断室ドクター”小穴純・東京大学教授と松本三郎・旭光学社長の間に熾烈な議論があったこと、その内幕を、小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』の第3章「カメラを育てた人たち」の中で詳述しています(第3節「研究室へ旭光学・松本社長の怒鳴り込み」、朝日文庫版 p.173~179)。
それによると、ニューフェース診断室の初校では開放時の画質を酷評していたのだそうです。その初校のゲラ刷りをデータチェックのために旭光学に送ったところ、同社から申し入れがあってその部分が削られ、初校の面影は
寄り切られたかに見えるアサヒカメラですが、5年後に一矢報いています。1962年7月号の記事、「どんなレンズがアマチュアに愛用されているか」の一節です。
現在ではほとんど話題に上ることのない Takumar 58mm F2 ですが、
パウル・ルドルフ(Paul Rudolph)が1897年までに発明したプラナー、4群6枚のダブルガウス型のレンズ構成は対称型構成であることから、球面収差・歪曲収差と低次のコマ収差が自然にいい感じに補正されるという特徴を持ちます。また、ルドルフはこの設計で「バリッド・サーフェス(buried-surface)」=
加えて、この時代のダブルガウス型レンズにはもうひとつの問題がありました。レンズ構成が4群、つまり空気との境界面が8面もあることから、レンズ面での反射による光の損失が大きく、コントラストも大きく損なわれるのです。
反射防止コーティングがなかった時代の反射の影響はどれほどだったのか。アサヒカメラ1950年3月号で、芳村重成・昭和光機工業技師はこう解説しています。
反射防止コーティングが実用化されていない時代に反射光による光の損失やコントラストの低下を防ぐ方法はただひとつ、レンズ構成の群数をできるだけ少なくして空気との境界面を減らすしかなかったのです。そこでこの時代、レンズのエレメント(枚数)を増やす場合、接合する枚数を増やすという手法が一般的でした。しかし接合は収差補正の自由度を縛ります。接合面は二つのレンズの曲率を完全に一致させる必要があるためです。曲率が一致していなければくっつけられません。接合しないことにすれば二つの面にそれぞれ異なる曲率を与えられ、収差補正の自由度は格段に上がります。自由度が上がることは分かっているものの反射光の影響は如何ともしがたく、分かっていても躊躇せざるを得なかったのです。
高次のコマ収差がコマ・フレアを引き起こしてコントラストを悪化させてしまう。収差があるなら収差を補正すればいいのですから、収差を補正するために、レンズの構成枚数を増やすか、または、接合を分離して収差補正の自由度を増せばよさそうです。しかし、接合しない独立した群としてレンズを追加すれば、あるいは接合を分離して群数を増やせば、空気との境界面が1群に付き2面も増えてしまう=コマ・フレアが解消してコントラストが向上したとしても、増えた反射光が画質を損ないます。
1920年、ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)はフリントガラスより屈折率の高いクラウンガラスを使用して、構成図上は対称な4群6枚ながら収差補正を非対称とした「Opic」(または「シリーズO」)を送り出します。
1930年、H.W.リーは、一番後ろの凸レンズ1枚を2枚に分割した5群7枚構成を発明。この設計は1936年にライカスクリューマウントの「Xenon 5cm F1.5」として発売されました。
1934年、アルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)は2枚目と3枚目の接合を分離して5群6枚としたSchneider-Kreuznach Xenon 5cm F2を送り出します。
(M42 MOUNT SPIRALがこのレンズの設計としている米国特許No.2627204・同No.2627205はいずれも1950年出願で、1934年の Xenon 5cm F2 が1950年の設計によって
しかしながら、どちらのXenonも5群、空気との境界面は10面に増加しています。前掲の小穴純教授の文章にある、
1936年、アーサー・ワーミッシャム(Arthur Warmisham)は、第2群と第3群をそれぞれ3枚接合とした4群8枚の設計で、高次収差を利用してコマ・フレアの除去を試みましたが、成功したとは言いがたかったようです。
「高次収差を利用」とは、意図的に高次収差を発生させて、その高次収差を補正することで、各種の収差をまとめて一気に補正してしまおうとする手法、「高次の収差補正」と呼ばれる技術です。新種ガラスがまだ実用に供されていないこの時期に高次の収差補正を行おうとすると、どうしても3枚ないしそれ以上のレンズを接合するしかありませんでした。ゾナーが3枚接合を採用していたのも、同じ理由です。
ゾナーは元をたどると、1893年にハロルド・デニス・テイラー(Harold Dennis Taylor)が開発した3枚玉の写真レンズ、トリプレットに始まります。
1916年、チャールズ・C・マイナー(Charles Clayton Minor)は、トリプレットを明るくする方法として、トリプレットの前側の空気間隔に凸メニスカスのエレメントを入れた4枚玉レンズを提案、多くの社がシネカメラ向けに供給しました。
1919年にルートヴィヒ・ベルテレ(Ludwig Bertele)は、マイナーの4枚玉レンズの前群2枚をそれぞれ2枚接合のレンズ(ダブレット)に変え、1922年にはエルノスター(Ernostar)を開発、1924年の改良で、画角を少し広げながらF1.8まで明るくしました。
1931年、ベルテレはF2のゾナー、Sonnar 5cm F2 を開発しました。さらに1932年には Sonnar 5cm F1.5 を開発、1937年の再設計(フランス特許 Nᵒ837616・米国特許 No.2186621)では従来通りの3群のほか、後玉に薄い凸レンズを追加して各群のパワー配置を「正負正正」(凸凹凸凸)とした4群8枚構成も検討しています。
ゾナーは前述の通り、高次の収差補正、“毒を以て毒を制す”とも言われる補正を行うレンズです。第3群の曲率の強い接合面で高次収差をわざわざ発生させて、それを第2群の3枚接合=屈折率の高い硝材で作られた凸メニスカスと凹レンズで屈折率の低い硝材の凸レンズをサンドイッチにした第2群で補正して、各種収差をまとめて補正しているわけです。つまりゾナー前群の第2群には高次収差を補正する能力があります。トロニエはガウスタイプのXenon 5cm F2で2枚目と3枚目の間に空気を挟みましたが、この当時に使えた硝材では空気を挟んでもこの能力を得るのは難しく、ガラスを挟む必要がありました。この収差補正手法によってゾナーはコマ収差の補正に優れ、それがこの時代のガウスタイプに対する大きな優位の源となっていました。
では、こんな高度な収差補正を行っているゾナーはいいこと尽くめかというと、そうでもありません。まず、トリプレットから派生していった構成なので、パワー配置が前後で非対称なテレフォトタイプに相当し、広画角化が困難です。これはバックフォーカスが長くなるほど厳しくなります。また、非対称構成ゆえに色収差や歪曲収差は弱点になります。さらにもうひとつ、ゾナーは近距離収差変動が大きい、つまり撮影距離が近くなると急激に収差が悪化し画質が落ちるというウィークポイントを持ちます。ゾナーがこの時代にガウスタイプに対して持っていた優位性は、当時はまだ一眼レフ=長いバックフォーカスが必要で、パララックスがないため接写が行いやすい構造のカメラが全く主流ではなかった点にも負っています。
1938年11月5日、東京光學機械株式會社(現在のトプコン)の富田良次が、第2群を凸メニスカス・凸レンズ・凹レンズの3枚接合とした4群7枚構成の「Simlar 5cm F1.5」の特許を出願、1940年6月15日に公告、同1940年9月19日、特許第138670號として成立します。写真レンズとしての発売は、1947年発売のレオタックスDⅢに少数が供給されたという説もありますが、本格的な販売は1950年のレオタックスDⅣからとされます。ただし、戦時中にも生産されていたらしく、X線間接撮影用カメラに装着されていたほか、数量は不明ながら、日本光学や精機光学(キヤノン)でも生産されていた記録があります。
Simlar 5cm F1.5 は、ガウスタイプの後群に、ゾナーの前群を合体させた折衷構成のレンズですが、では、このレンズ構成はゾナーでしょうか、ガウスでしょうか。中川レンズデザイン研究所の中川治平はこの設計について、こう書いています。
Simlar 5cm F1.5 は、それまで欧米のレンズをコピーするばかりだった日本で初のオリジナル設計のレンズです。このシムラーは、ガウスタイプのネックだったコマ・フレアの除去に成功し、そして戦後日本のオリジナルレンズの出発点にもなりました。
やや遅れて、このシムラーに似たレンズが出てきます。英国・ダルメイヤー社の「セプタック」(“7枚玉”の意)、SEPTAC ANASTIGMAT 2inch F1.5 です。設計者はバートラム・ラングトン(Bertram Langton)、特許の出願は1942年3月7日です。
ガウスがゾナーに太刀打ちできなかった原因に、第二次世界大戦以前のレンズ設計には厳しい制約があったことも挙げられます。その制約要因は、レンズ表面の反射光、硝材の性能、計算能力の三つ。ところが、それら制約が第二次大戦直前の1930年代後半から相次いで解消されはじめます。
反射光は、1896年にデニス・テイラーが、ヤケを生じたレンズの中に透過率のよいものがあることから、レンズ表面に薄い膜を形成すれば反射が防げることを発見し、ドイツでは1935年にツァイスが、アメリカでは1936年に J.Strong が、屈折率が低く丈夫な薄膜を真空蒸着で付ける技術を開発しました。その後、アメリカでは1941年にイーストマン・コダックが実用化し、広範な製品にコーティングを施すようになりました。日本では当時これを「増透処理」「増透膜」と呼んでいましたが、まず1939年に日本光学で J.Strong の「ストロング特許」の追試を開始、1942年5月に横須賀海軍工廠で本格的な開発がスタートします。蒸着に必要な高真空状態が当時の日本では得られず難航しつつも1943年に目処が立ち、1944年に実用化されて双眼鏡や潜望鏡に施されました。日本光学の八八式10メートル三型潜望鏡では、コーティングなしでは透過率10%だったものが、コーティングが施されると透過率は25%へと、2.5倍に向上しています。
硝材は、アメリカ、ワシントン・カーネギー協会の地球物理学研究所でG.W.モーリー(George W. Morey)が1934年から続々と開発した新種ガラスを、イーストマン・コダックが内側にプラチナをコートした坩堝、白金坩堝を開発して1937年に熔解に成功し、商業化に目処を付けます。また、後を追うようにドイツのショット社でも新種ガラスが開発されていきます。その後アメリカでは、第二次世界大戦中にコーニング社が連続炉で作る技術を開発しました。日本では、まず日本光学が1948年8月に新種ガラスの溶解に成功、1951年に通産省主導で国内の光学企業を鳩合した新種ガラスの国産化事業が始まり、1954年に成功しましたが、その同じ50年代、アメリカではコーニングとボシュ・ロムが、さらに高精度な新種ガラスの製造に成功していました。
計算機は、この当時はまだ歯車を用いた機械式計算機が主流で、人が手で回すもののほか、モーターで回す電動化されたものがありましたが、いずれも基本的には1874年のオドナー式計算機のアーキテクチャに準拠したもので、オドナー式計算機自体も1673年のゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツの計算機に改良を施したものにすぎませんでした。電動計算機を用いた計算では、検算の手間も含めて、1本の光線がレンズの1面を通過する計算に30分を要するという記述が、川合敏雄「工業用テレビジョンの光学的研究(第四報~第六報)」(日立製作所・1955年6月~1956年9月、日本初のズームレンズ設計)にあると、『カメラと戦争』の朝日文庫版 p.198で紹介されています。
しかし1936年に重要な論文が発表されます。まず、アラン・チューリング(Alan Mathison Turing)の「On computable numbers, with an application to the entscheidungsproblem」(計算可能数とその決定問題への応用)。ついで12月、日本電気の中嶋章と榛澤正男が「継電器回路に於ける單部分路の等價變換の理論(其一)」を発表。この中嶋・榛澤論文で、ブール代数による論理演算が電子回路で実行可能なことが史上初めて示され、コンピュータ時代の幕が開きます。
1937年にハワード・H・エイケン(Howard Hathaway Aiken)は計算機械の構想を発表。1944年に完成した、そのアメリカ初の電気機械式計算機「Automatic Sequence Controlled Calculator」(自動逐次制御計算機)は「Harvard Mark Ⅰ」とも呼ばれます。この計算機は主に米海軍で弾道計算や軍艦設計に使われましたが、レンズ設計に関する問題の解決にも使われました。
1946年には、世界初のコンピュータとしてよく知られている、プレスパー・エッカート(John Presper Eckert)とジョン・モークリー(John William Mauchly)による「ENIAC」が発表されました。
1934年から計算機械の開発を進めていたドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)は、1941年にリレー式(電気機械式)計算機「Z3」を完成させ、1949年にツーゼKG(Zuse KG)を設立。同社はエルンスト・ライツの発注を受けて、同社としては最後のリレー式計算機「Z5」を開発して1952年に納入しています。この後、ツーゼKGは開発を電子式に転換し、「ZⅡ」、「Z22」、「Z23」などのコンピュータはレンズ設計用としてヨーロッパの多くの光学企業が導入しました。また、日本光学も日本企業としてはかなり早い時期にツーゼの計算機を導入していたことが、ニコン・更田正彦顧問(1996年当時)の証言に伺えます(遠藤諭『計算機屋かく戦えり』・同『新装版 計算機屋かく戦えり』ともにp.181)。
日本では富士写真フイルムの岡崎文次がレンズ設計の計算を目的に1949年3月に開発に着手、1956年3月初めに日本初のコンピュータ「FUJIC」を完成させ、稼働を開始しました。しかし、社外からの注目は開発中から高かったにもかかわらず社内の反応は冷淡で、同社はわずか2年半後にFUJICを早稲田大学に寄贈し、社外に事実上“投棄”しました。レンズ設計の社内体制が変わったためとされますが、当時、レンズ設計体制の変更自体がFUJIC開発への懲罰ではないかと疑う見方が囁かれていました。
戦争が終わってしばらく後、1950年代になると、日本国内では Simlar 5cm F1.5 に範を取ってゾナー前群を導入した変形ガウスタイプのレンズが、Serenar 85mm F1.5 Ⅰ(1952年)、Takumar 83mm F1.9(1953年・1957年、ゾナーとする雌山亭やアサヒペンタックスSシリーズ博物館の記述は誤り)、G.Zuiko 4.5cm F1.9(山田幸五郎『光学の知識』よりp.170、おそらく1956年1月発売の「オリンパス35-S 1.9」)など、各社から相次いで発売されました。当時の日本のレンズ設計者の多くは、オリジナルの設計を始めるに当たって、富田良次のシムラーの発想を叩き台にして、そこからスタートしていたわけです。
1957年の Takumar 58mm F2 も、この流れの中で投入された変形ガウスタイプのレンズのひとつで、シムラーに倣ったゾナー前群に変形ガウスの、と言うか、クセノタータイプの後群を合体させた構成です。同様の、第2群を3枚接合・第3群を凹メニスカスの単エレメントとした4群6枚構成の変形ガウスタイプの設計は、キヤノンの伊藤宏も1956年に行っています。
クセノタータイプは、C.G.ワイン(Charles Gorrie Wynne)の「ユニライト」(Unilite)に始まります。
1944年、ガウスタイプの後群・第3群の接合を分離した設計を進めていたC.G.ワインは、分離した凹レンズを、絞りに向かって深い凹面を持つ凹メニスカスにしたところ、分離した凸レンズが不要になることを見出しました。これがユニライト、シネ・ユニライト(Cine Unilite)で、1945年には撮影倍率1/4倍でF1の明るさを持つCRT管面撮影用レンズも開発されました。
このレンズ構成が他社でも採用されるようになり、そのひとつが、1952年にギュンター・クレムト(Günther Klemt)とカール・ハインリヒ・マッハー(Karl Heinrich Macher)が設計した「クセノタール」、Xenotar 80mm F2.8 です。このレンズ構成が今日「クセノタータイプ」と呼ばれる、変形ガウスタイプのバリエーションです。この構成を中川治平はこう解説します。
さて、キヤノンの伊藤宏も、富田良次のシムラーに感銘と刺激を受けた設計者の一人です。伊藤はシムラーの設計を見て、この4群7枚構成からレンズを1枚減らせないかと考えました。そして設計を進めて、ついにガウスタイプのコマ・フレアの発生原因を突き止めるに至りました。ダブルガウス4群6枚の第3群、4枚目のレンズの被写体に向けた凹面の曲率が高次のコマ収差、コマ・フレアの発生に関わっているという発見です。その発見を理論化して設計したのが、1950年11月7日に出願した特願昭25-14340・特公昭28-6685、日本国特許第205109号(米国特許 No.2681594)、1951年11月発売のキヤノン初のオリジナル設計のレンズ「Serenar 50mm F1.8」です。見かけはシンプルなガウスタイプ4群6枚のセレナーの設計について、キヤノンの鈴川溥がアサヒカメラ1954年3月号の記事、「対談・国産レンズを語る(その3)」で平易に解説しています。
この当時、東大の小穴純教授の研究室で、4群6枚のセレナー50mm F1.8と、6群7枚のズミクロン5cm F2のフレア(ハロ)の測定が行われました。その結果、セレナーの開放時F1.8のフレアはズミクロン開放時F2より多いものの、F2から最小絞りまで、フレアの少なさでセレナーがズミクロンを上回るという結果が出ました。そしてこのデータの隅には「このハロの多さがズミクロンが嫌われる理由」と朱書きされていると、これも小倉磐夫 『カメラと戦争』 に記されています(朝日文庫版 p.208~211)。
ガウスタイプのコマ・フレアとの苦闘は、3枚接合のゾナー前群導入が契機となって原因の解明へと繋がり、バックフォーカスの短いレンジファインダー機においては、ここに一応の決着を見ました。伊藤宏には、コマ収差除去の功績を讃えて、1980年(昭和55年)の春の叙勲で紫綬褒章が授与されました。ガウスタイプはこの後、今度は一眼レフの長いバックフォーカスと戦うことになります。1957年の Takumar 58mm F2 は、その緒戦に、富田良次のシムラーの発想を出発点に、それを当時注目されていたクセノタータイプに応用した設計で臨んだのだろうと想像します。
MAX FACTORY 1/7scale “みくずきん” (Mikuzukin)
Asahi Optical Co. Ltd. Takumar 58mm F2, F2
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ (ISO 200, A mode)
Takumar 58mm F2, F2.8
Takumar 58mm F2, F4
Takumar 58mm F2, F5.6
Takumar 58mm F2, F8
至近距離での撮影も理由だとは思いますが、開放時の画質は甘いのでライブビューではピント合わせに苦労します。開放ではコントラストも低いのでフォーカスピーキングもあまり役に立ちません。色収差やコマ収差は開放でもF2.8でも目立ちますが、マイクロフォーサーズではF4に絞ると目立たなくなります。「ニューフェース診断室」が初校で開放時の画質を酷評していたというのがよく理解できます。コントラストはF5.6が最も高いようです。ピント移動は、実絞りで合わせてから絞りを開放に開けると、かなり大きな移動が見えます。
Takumar 58mm F2 の構成図を見て、その第2群の3枚接合だけに目を奪われて脊髄反射的に「ゾナーである」と主張するコレクターが、雌山亭、アサヒペンタックスSシリーズ博物館、Frühe lichtstarke Objektive、산들산들、kuuan、Pentax Forum のレビュー、PentaxForums のスレッド、Manual Focus Lenses のスレッド、ClubSNAP のフォーラム、 Digital Photography Review のスレッド、Pentax User のレポート、Sample-Image.comなど、国内外に大勢いらっしゃるのですが、しかしゾナーは、トリプレットからエルノスターを経て派生したレンズ構成で、またテッサーを拡張したとする設計(注)もありますが、つまりはゾナーの要件は3枚接合の有無ではなく、パワー配置がトリプレットから引き継がれた非対称な構成になっていることです。Takumar 58mm F2 はパワー配置が対称なのでゾナータイプには当たりません。ゾナーの前群は前述の通り、ガウスの前群と
(注 : ドイツ特許 DE2419140・米国特許 No.3994576、エルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel),ハインツ・ツァヤダツ(ハインツ・ザジャダス Heinz Zajadatz)、1974年4月20日)
ゾナーの構成について、オールドレンズのコレクターやマニアの間では、一例を挙げると、雌山亭の文章
さらに言えば、この「現代の基準」とやらでは、1970年代から現代に至る、ツァイス以外のゾナータイプのレンズや3枚接合がないゾナー(例えば、Nikon ピカイチ L35AF、Makro-Sonnar T* 100mm F2.8、Sonnar T* FE 55mm F1.8 ZA、Sonnar T* FE 35mm F2.8 ZAなど)が、どうしてゾナーなのか、説明できません。そもそもベルテレはゾナー5cm F2の設計時に、明るさをF2.8に抑えた3枚接合のない3群5枚構成のゾナーも検討しているのです(米国特許 No.1998704 ExampleⅡ / Fig.2)。従って、“3枚接合がありさえすれば他の群は全く無関係に十把一絡げの問答無用であれもこれもみんなゾナー”などとやらかしかねない「現代の基準」とやら(実際にやらかしてしまっているわけですが)は、ゾナーの定義とは見なし得ないと考えざるを得ません。
編集履歴:
参考資料(順不同):
一世紀ほど前、二つの光学系が衝突した、というより、相互にすれちがった。二、三十年の誤差は問題ではない。このすれちがいには、少なくともそれくらいの時間がかかったからである。ほぼ同じ時期に───両光学系を含むほとんどすべての光学系が、増透膜を持つにいたった。
それはさておき。
Takumar 58mm F2(タクマー58mm F2)は、旭光学工業が1957年に発売した最初の「アサヒペンタックス」の標準レンズです。この初代アサヒペンタックスは、現在は後継機種と区別するため「アサヒペンタックスAP」とも呼びます。アサヒペンタックスAPは、クイックリターンミラーを実現したアサヒフレックスⅡB、同ⅡAの後、マウントをプラクチカマウント(M42マウント)に改め、ファインダーに国産機としては2番目となるペンタプリズム(ペンタゴナル・ダハ・プリズム Pentagonal dach-prism =“五角形の形状を持つ屋根型のプリズム”の意)を採用してアイレベルでの撮影を可能とし縦位置撮影を容易にした35mm判一眼レフです。ただし、当機発売から少し後よりしばらく、“一眼レフ”はウェストレベルファインダーのものを、ペンタプリズム搭載機は“一眼ペンタレフレックス”、略して“一眼ペンタレフ”や“ペンタレフ”と呼んで区別された時期がありました。
フィルター径は46mm、先端からマウント面までの長さ33.5mm、最大外径54.5mm。質量は公称160gですが、手持ちの個体(シリアルナンバー 15万3千2百台)は186gあります。プリセット絞りで最小絞りはF22、絞り羽根は10枚、最短撮影距離は60cmよりわずかに近く寄れます。マウント面側にはプラクチカマウントの雄ネジがあるのみで、カメラボディ側との連動機構のようなものは全く何もないので、あっけないほどすっきりした佇まいです。レアなレンズではないはずですが、探すと意外に見つかりません。
レンズ構成は4群6枚。最前面の第1群は被写体に凸面を向けた凸メニスカスの単エレメントで正のパワー、結像面側に凹面を向けた第2群は凸メニスカス・凸レンズ・凹レンズの3枚を接合して群全体では負のパワーを持ち、絞りを挟んで、第3群は被写体側に凹面を向けた、かなり厚みのある凹メニスカスの単エレメントで負のパワー、そして結像面に最も近い第4群は被写体側に凸面を向けた平凸レンズで正のパワーを持ちます。つまり、このレンズは4つの群のパワー配置を「正負負正」(凸凹凹凸)とした対称型の構成を採っています。
旭光学は発売当時、
このレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました。と公式に発表しています(『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡』よりp.23、アサヒカメラ1957年9月号初出)。また、丸善が1960年に発刊した『科学写真便覧 上 新版』も、
タクマー58mm F2もガウス型の変形である。(p.266)と特に指摘しています。このとおり、Takumar 58mm F2 は、
絞りをはさんで前半分はゾナー、後半分はガウスという混合タイプ(小倉磐夫『カメラと戦争』 朝日文庫版p.174)の構成を採った変形ガウスタイプですが、絞りの直後の第3群が凹メニスカスの単エレメントなので、変形クセノタータイプとも言えます。1950年代の日本では、ゾナーとガウスを折衷したレンズ設計が流行していました。
(『科学写真便覧 上 新版』は Takumar 83mm F1.9 も、p.270に
ガウス型の変形と明記しています。)
では、アサヒカメラ1957年9月号の第2回「ニューフェース診断室」より、Takumar 58mm F2(シリアルナンバー 132295)の評価を見てみます。担当は浮田祐吉(機械試験所)、木村伊兵衛、小穴純、貫井提吉の四氏です。
F2レンズの鏡胴は、前方からプリセット絞り環、絞り目盛り環、距離目盛り環と並んでいて、レンズ交換時につかむ所がない。外す時もつける時も、距離目盛り環か絞り目盛り環を持たねばならない。距離目盛り環を持つのがもっとも楽だが、そうすると、レンズを外す時は無限遠まで、つける時は60㌢のところまでいやでもレンズを伸縮させなければならず厄介である。各目盛の字は小さくて読みにくい。(中略)
測定してみると、明るさの実測値はF2.03でたいへん忠実である。焦点距離は59.81㍉でやや長かった。どんなレンズでも、絞ると開放の時よりピントの合う位置がずれるが、その焦点移動量は絞りF5.6の時0.14㍉延びた。つまり絞れば後ピンになるわけだ。しかしこの量はこれくらいのレンズではひどいほうではない。解像力は図6のようで、F5.6に絞ると開放時よりずっとよくなる。しかし片隅はいくら絞ってもややぼけるようだ。また色収差もかなり大きいのでF2クラスのレンズとしては今後の精進を望みたいところである。
歪曲はタル型でF5.6の場合、画面周辺部で-3%、極めて大きい値といえよう。このレンズは風景や学術用よりむしろポートレート向きである。レンズ鏡胴が軽合金で軽いのは良い。一眼レフとしては、近接撮影距離を60㌢よりもっと近くまで写るようにしてほしい。
メーカーは答える
綿密なるご検討をいただきましたが、納得のゆく点については今後研究を重ねてゆく所存です。しかしながら特定の1台のみのテストでカメラ全般を評価するということは適当とは考えられませんし、レンズ部門においては、特に納得のゆかない点があります。(中略)
レンズについて
解像力の点は本テストと同一条件で測定した結果、当社の社内規格では最周辺部の解像力はF5.6でRtの41本以上でありますので、いま一度ご検討ください。なおこのレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました。歪曲も設計値は2%で、ゾナー型レンズでは普通3.5%程度でありますので、極めて大きいという表現は当たらないと思います。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡』 p.22~23
アサヒカメラ1957年9月号再録
解像力の「Rt」は同心方向、画面中心に対して同心円の方向に並ぶ平行線についての解像力です。アサヒカメラ1957年9月号再録
測定結果では、58mmを公称しながら実際にはほぼ60mmという焦点距離の長さが目を引きます。また、「画面中心が最良となるピント面」と「画面全体が平均的に最良となるピント面」が、開放時・F5.6時ともに一致していることから、像面の平坦性はかなり良さそうと推察できます。なお、歪曲収差は、この当時のニューフェース診断室は現在のニューフェース診断室よりかなり厳しく、許容範囲を +1%(糸巻き型)~ -2%(タル型)の範囲に置いていました。
このニューフェース診断室の裏側で、“診断室ドクター”小穴純・東京大学教授と松本三郎・旭光学社長の間に熾烈な議論があったこと、その内幕を、小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』の第3章「カメラを育てた人たち」の中で詳述しています(第3節「研究室へ旭光学・松本社長の怒鳴り込み」、朝日文庫版 p.173~179)。
それによると、ニューフェース診断室の初校では開放時の画質を酷評していたのだそうです。その初校のゲラ刷りをデータチェックのために旭光学に送ったところ、同社から申し入れがあってその部分が削られ、初校の面影は
F5.6に絞ると開放時よりずっとよくなる。のフレーズに残るのみと。そして争点はF5.6時の解像力の評価、画面中心から18.6mmの位置で記録された同心方向の解像力 17本/mm という数値に移り、ついには松本三郎社長が本郷の東大・理学部の小穴純教授の研究室に押しかけて直談判に及んだというのです。
社長の言い分は(中略)「いかに工業技術院機械試験所の測定とはいえ、同心方向ミリ17本とは承服しがたい」というものだ。
(中略)当時の旭光学はこういっている。「(たまたま購入した)特定の一台のみのテストでカメラ全般を評価するのは適当と考えられません」。つまりカメラには当たり外れがあるから、かなり数をまとめてテストしないと本当のことはわからないというのだ。
(中略)これは確かに正論のようではあるが、ユーザーの身になってみると(中略)運よく「アタリ」の製品を買った客はよいが、「ハズレ」を引いた客はどうしてくれるのか、という問題が生ずる。
(中略)初代ペンタックスが登場した時代には、(中略)品質のバラツキの幅はかなりあっただろう。ここに「診断室」の測定では画面隅ミリ17本、メーカーテストでミリ41本という食い違いが生ずる原因があった。
「診断室」が「片隅はいくら絞ってもややボケる」といっているのは偏芯の存在を示している。(中略)
小穴教授を相手にこうした解像力数値の押し問答を続けていた松本三郎社長は、「これだけ言ってもわかってもらえないか」という顔をして最後に円筒形に巻かれた大きな紙包みをくるくるほどくと、これがなんと全紙に引き伸ばされたプロの作品。一枚が人物で、一枚が風景だったと記憶するが、「このタクマー58ミリF2で撮った作例です。隅から隅まで実にシャープじゃないですか。小穴先生は隅の解像力がどうのこうのとおっしゃるが、要するによい写真が撮れればよいのです。この作例でどこの隅が甘いかご指摘下さい」。
この松本三郎社長の迫力に押されて小穴教授も「うむ……」と言ったきり返す言葉に窮したようだった。
小倉磐夫 『カメラと戦争』 朝日文庫版 p.176~179
寄り切られたかに見えるアサヒカメラですが、5年後に一矢報いています。1962年7月号の記事、「どんなレンズがアマチュアに愛用されているか」の一節です。
ごく初期の製品には不十分なものもあり、5年前に本誌ニューフェース診断室で取り上げたアサヒペンタックスの標準レンズなどは、かなり問題が含まれていたが、その後、優秀な設計者が入り、また会社の製造設備なども急速に整備されたため、いまではどのレンズもよい性能を発揮してくれる。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.204
アサヒカメラ1962年7月号再録
アサヒカメラ1962年7月号再録
現在ではほとんど話題に上ることのない Takumar 58mm F2 ですが、
絞りをはさんで前半分はゾナー、後半分はガウスという、今はもう忘れられたレンズ構成の背後には、ガウスタイプの苦闘の歴史と、日本のオリジナルレンズ設計黎明期の息吹があります。
パウル・ルドルフ(Paul Rudolph)が1897年までに発明したプラナー、4群6枚のダブルガウス型のレンズ構成は対称型構成であることから、球面収差・歪曲収差と低次のコマ収差が自然にいい感じに補正されるという特徴を持ちます。また、ルドルフはこの設計で「バリッド・サーフェス(buried-surface)」=
屈折率は等しいが分散能が全く異なっているような二つのガラスの張り合わせ面(ルドルフ・キングズレーク『写真レンズの歴史』よりp.121)を導入、色収差の自由な制御を可能にしました。反面、ダブルガウスはその構成の自然さから高次のコマ収差の補正に弱く、それが引き起こすコマ・フレアにレンズ設計者の苦闘が長く続くことになります。
加えて、この時代のダブルガウス型レンズにはもうひとつの問題がありました。レンズ構成が4群、つまり空気との境界面が8面もあることから、レンズ面での反射による光の損失が大きく、コントラストも大きく損なわれるのです。
反射防止コーティングがなかった時代の反射の影響はどれほどだったのか。アサヒカメラ1950年3月号で、芳村重成・昭和光機工業技師はこう解説しています。
普通のガラスで1面につき4%、表裏で、合計8%の光が反射する。したがって多数のレンズを組み合わせたカメラでは約35%、さらにプリズム式双眼鏡では50%くらいの光を損失する。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.162
アサヒカメラ1950年3月号再録
一般的には、このように1面に付き4%の光が反射するとされますが、ガラスの屈折率が高くなると反射も増加します。また、アサヒカメラ1952年11月号の記事「写真レンズの謎を解く」に、小穴純・東大教授はこう書いています。アサヒカメラ1950年3月号再録
実際、私どもが2体レンズのタゴールで撮った写真と、4体レンズのプラナーで撮った写真とではネガで見れば、すぐに区別がつきます。タゴールで撮った写真は、清澄で秋晴れのごとく、プラナーの写真は陰うつで冬の曇天下のようだったのです。
それでツァイスなどでは、特にやむを得ない場合を除き、写真レンズは3体を標準として設計していました。トリオター、テッサーはもとより、ゾナー系のレンズはみな3体です。またビオター、ビオゴン、オルトメターなどは残念ながら、やむを得ず4体にしたもので、5体レンズというのはとんでもないという調子でした。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.148
アサヒカメラ1952年11月号再録
アサヒカメラ1952年11月号再録
反射防止コーティングが実用化されていない時代に反射光による光の損失やコントラストの低下を防ぐ方法はただひとつ、レンズ構成の群数をできるだけ少なくして空気との境界面を減らすしかなかったのです。そこでこの時代、レンズのエレメント(枚数)を増やす場合、接合する枚数を増やすという手法が一般的でした。しかし接合は収差補正の自由度を縛ります。接合面は二つのレンズの曲率を完全に一致させる必要があるためです。曲率が一致していなければくっつけられません。接合しないことにすれば二つの面にそれぞれ異なる曲率を与えられ、収差補正の自由度は格段に上がります。自由度が上がることは分かっているものの反射光の影響は如何ともしがたく、分かっていても躊躇せざるを得なかったのです。
高次のコマ収差がコマ・フレアを引き起こしてコントラストを悪化させてしまう。収差があるなら収差を補正すればいいのですから、収差を補正するために、レンズの構成枚数を増やすか、または、接合を分離して収差補正の自由度を増せばよさそうです。しかし、接合しない独立した群としてレンズを追加すれば、あるいは接合を分離して群数を増やせば、空気との境界面が1群に付き2面も増えてしまう=コマ・フレアが解消してコントラストが向上したとしても、増えた反射光が画質を損ないます。
1920年、ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)はフリントガラスより屈折率の高いクラウンガラスを使用して、構成図上は対称な4群6枚ながら収差補正を非対称とした「Opic」(または「シリーズO」)を送り出します。
1930年、H.W.リーは、一番後ろの凸レンズ1枚を2枚に分割した5群7枚構成を発明。この設計は1936年にライカスクリューマウントの「Xenon 5cm F1.5」として発売されました。
1950年代末から60年代初め、一眼レフでF1.4の明るさの標準レンズを50mm化する可能性の検討と研究が日本光学で集中的に行われ、脇本善司と清水義之によって、ガウスタイプの第4群の凸レンズを二枚に分割した5群7枚構成にすればバックフォーカスを確保しつつ50mm化が可能な上、収差補正も良好なことが突き止められました(1962年3月13日出願・特公昭40-386、Nikkor-S Auto 50mm F1.4)。この構成自体は既にH.W.リーが1930年に開発済みでしたが、長いバックフォーカスで50mm化と大口径化がともに可能な構成とは、このときまで全く考えられていませんでした。この発見をミノルタのレンズ設計者、小倉敏布は 『写真レンズの基礎と発展』のp.141~142にこう書いています。
この発見は、それまでF1.4の50mm化は無理であると考えていた設計者たちの大方の予想を裏切ったものであった。コンピューターの導入で計算能力が急増した中で、これまで不可能と思い込んでいたのは、そのような設計上の「解」があることを知らなかったにすぎないという反省も生まれるようになった。1964年には、この構成の第2群を分離して収差補正の自由度を高めた6群7枚構成を旭光学の風巻友一と高橋泰夫が開発、1975年にはその構成でF1.2の50mm化も実現しました(SMC PENTAX 50mm F1.2、1975年6月発売)。このような開発の経緯から、これら6群7枚構成をウルトロン型などと呼称するのは不適当と考えます。風巻・高橋特許はトロニエの特許を引用しておらず、類似文書にもトロニエの特許は一つも挙がっていません。
(中略)一見、似ていても、バックフォーカスの長い大口径に最適であることをつきとめ、具体的な設計的解を見いだしたのは、新たな発明といえるのである。
1934年、アルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)は2枚目と3枚目の接合を分離して5群6枚としたSchneider-Kreuznach Xenon 5cm F2を送り出します。
(M42 MOUNT SPIRALがこのレンズの設計としている米国特許No.2627204・同No.2627205はいずれも1950年出願で、1934年の Xenon 5cm F2 が1950年の設計によって
コマフレアと像面湾曲の同時補正を行ったとすると、タイムマシンの存在でも想定しないと辻褄が合いません。なお、トロニエは1935年に、2枚目と3枚目の接合を分離し、第4群を3枚接合とした5群7枚構成の設計も行っています。)
しかしながら、どちらのXenonも5群、空気との境界面は10面に増加しています。前掲の小穴純教授の文章にある、
5体レンズというのはとんでもないの5群です。
1936年、アーサー・ワーミッシャム(Arthur Warmisham)は、第2群と第3群をそれぞれ3枚接合とした4群8枚の設計で、高次収差を利用してコマ・フレアの除去を試みましたが、成功したとは言いがたかったようです。
「高次収差を利用」とは、意図的に高次収差を発生させて、その高次収差を補正することで、各種の収差をまとめて一気に補正してしまおうとする手法、「高次の収差補正」と呼ばれる技術です。新種ガラスがまだ実用に供されていないこの時期に高次の収差補正を行おうとすると、どうしても3枚ないしそれ以上のレンズを接合するしかありませんでした。ゾナーが3枚接合を採用していたのも、同じ理由です。
ゾナーは元をたどると、1893年にハロルド・デニス・テイラー(Harold Dennis Taylor)が開発した3枚玉の写真レンズ、トリプレットに始まります。
1916年、チャールズ・C・マイナー(Charles Clayton Minor)は、トリプレットを明るくする方法として、トリプレットの前側の空気間隔に凸メニスカスのエレメントを入れた4枚玉レンズを提案、多くの社がシネカメラ向けに供給しました。
1919年にルートヴィヒ・ベルテレ(Ludwig Bertele)は、マイナーの4枚玉レンズの前群2枚をそれぞれ2枚接合のレンズ(ダブレット)に変え、1922年にはエルノスター(Ernostar)を開発、1924年の改良で、画角を少し広げながらF1.8まで明るくしました。
1931年、ベルテレはF2のゾナー、Sonnar 5cm F2 を開発しました。さらに1932年には Sonnar 5cm F1.5 を開発、1937年の再設計(フランス特許 Nᵒ837616・米国特許 No.2186621)では従来通りの3群のほか、後玉に薄い凸レンズを追加して各群のパワー配置を「正負正正」(凸凹凸凸)とした4群8枚構成も検討しています。
ゾナーは前述の通り、高次の収差補正、“毒を以て毒を制す”とも言われる補正を行うレンズです。第3群の曲率の強い接合面で高次収差をわざわざ発生させて、それを第2群の3枚接合=屈折率の高い硝材で作られた凸メニスカスと凹レンズで屈折率の低い硝材の凸レンズをサンドイッチにした第2群で補正して、各種収差をまとめて補正しているわけです。つまりゾナー前群の第2群には高次収差を補正する能力があります。トロニエはガウスタイプのXenon 5cm F2で2枚目と3枚目の間に空気を挟みましたが、この当時に使えた硝材では空気を挟んでもこの能力を得るのは難しく、ガラスを挟む必要がありました。この収差補正手法によってゾナーはコマ収差の補正に優れ、それがこの時代のガウスタイプに対する大きな優位の源となっていました。
では、こんな高度な収差補正を行っているゾナーはいいこと尽くめかというと、そうでもありません。まず、トリプレットから派生していった構成なので、パワー配置が前後で非対称なテレフォトタイプに相当し、広画角化が困難です。これはバックフォーカスが長くなるほど厳しくなります。また、非対称構成ゆえに色収差や歪曲収差は弱点になります。さらにもうひとつ、ゾナーは近距離収差変動が大きい、つまり撮影距離が近くなると急激に収差が悪化し画質が落ちるというウィークポイントを持ちます。ゾナーがこの時代にガウスタイプに対して持っていた優位性は、当時はまだ一眼レフ=長いバックフォーカスが必要で、パララックスがないため接写が行いやすい構造のカメラが全く主流ではなかった点にも負っています。
1938年11月5日、東京光學機械株式會社(現在のトプコン)の富田良次が、第2群を凸メニスカス・凸レンズ・凹レンズの3枚接合とした4群7枚構成の「Simlar 5cm F1.5」の特許を出願、1940年6月15日に公告、同1940年9月19日、特許第138670號として成立します。写真レンズとしての発売は、1947年発売のレオタックスDⅢに少数が供給されたという説もありますが、本格的な販売は1950年のレオタックスDⅣからとされます。ただし、戦時中にも生産されていたらしく、X線間接撮影用カメラに装着されていたほか、数量は不明ながら、日本光学や精機光学(キヤノン)でも生産されていた記録があります。
Simlar 5cm F1.5 は、ガウスタイプの後群に、ゾナーの前群を合体させた折衷構成のレンズですが、では、このレンズ構成はゾナーでしょうか、ガウスでしょうか。中川レンズデザイン研究所の中川治平はこの設計について、こう書いています。
しかし、ガウスとゾナーの前群は本質的な差がない。
中川治平,深堀和良 『レンズテスト[第1集]』 p.108
前群についてはゾナーもガウスも「本質的な差がない」となると、前群だけ見ていてはレンズ構成のタイプ分けができないことになります。つまり、後群に注目しなければなりません。そしてこのシムラーの後群はガウスタイプですから、その後群に“ガウスタイプと「本質的な差がない」”ゾナーの前群を導入した Simlar 5cm F1.5 のレンズ構成は当然にゾナーではなく、変形ガウスタイプです。だいたい、パワー配置自体、ガウスタイプの前後対称な構成がそのままですから、ゾナーと見る余地はもともとないわけです。Simlar 5cm F1.5 は、それまで欧米のレンズをコピーするばかりだった日本で初のオリジナル設計のレンズです。このシムラーは、ガウスタイプのネックだったコマ・フレアの除去に成功し、そして戦後日本のオリジナルレンズの出発点にもなりました。
やや遅れて、このシムラーに似たレンズが出てきます。英国・ダルメイヤー社の「セプタック」(“7枚玉”の意)、SEPTAC ANASTIGMAT 2inch F1.5 です。設計者はバートラム・ラングトン(Bertram Langton)、特許の出願は1942年3月7日です。
ガウスがゾナーに太刀打ちできなかった原因に、第二次世界大戦以前のレンズ設計には厳しい制約があったことも挙げられます。その制約要因は、レンズ表面の反射光、硝材の性能、計算能力の三つ。ところが、それら制約が第二次大戦直前の1930年代後半から相次いで解消されはじめます。
反射光は、1896年にデニス・テイラーが、ヤケを生じたレンズの中に透過率のよいものがあることから、レンズ表面に薄い膜を形成すれば反射が防げることを発見し、ドイツでは1935年にツァイスが、アメリカでは1936年に J.Strong が、屈折率が低く丈夫な薄膜を真空蒸着で付ける技術を開発しました。その後、アメリカでは1941年にイーストマン・コダックが実用化し、広範な製品にコーティングを施すようになりました。日本では当時これを「増透処理」「増透膜」と呼んでいましたが、まず1939年に日本光学で J.Strong の「ストロング特許」の追試を開始、1942年5月に横須賀海軍工廠で本格的な開発がスタートします。蒸着に必要な高真空状態が当時の日本では得られず難航しつつも1943年に目処が立ち、1944年に実用化されて双眼鏡や潜望鏡に施されました。日本光学の八八式10メートル三型潜望鏡では、コーティングなしでは透過率10%だったものが、コーティングが施されると透過率は25%へと、2.5倍に向上しています。
硝材は、アメリカ、ワシントン・カーネギー協会の地球物理学研究所でG.W.モーリー(George W. Morey)が1934年から続々と開発した新種ガラスを、イーストマン・コダックが内側にプラチナをコートした坩堝、白金坩堝を開発して1937年に熔解に成功し、商業化に目処を付けます。また、後を追うようにドイツのショット社でも新種ガラスが開発されていきます。その後アメリカでは、第二次世界大戦中にコーニング社が連続炉で作る技術を開発しました。日本では、まず日本光学が1948年8月に新種ガラスの溶解に成功、1951年に通産省主導で国内の光学企業を鳩合した新種ガラスの国産化事業が始まり、1954年に成功しましたが、その同じ50年代、アメリカではコーニングとボシュ・ロムが、さらに高精度な新種ガラスの製造に成功していました。
計算機は、この当時はまだ歯車を用いた機械式計算機が主流で、人が手で回すもののほか、モーターで回す電動化されたものがありましたが、いずれも基本的には1874年のオドナー式計算機のアーキテクチャに準拠したもので、オドナー式計算機自体も1673年のゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツの計算機に改良を施したものにすぎませんでした。電動計算機を用いた計算では、検算の手間も含めて、1本の光線がレンズの1面を通過する計算に30分を要するという記述が、川合敏雄「工業用テレビジョンの光学的研究(第四報~第六報)」(日立製作所・1955年6月~1956年9月、日本初のズームレンズ設計)にあると、『カメラと戦争』の朝日文庫版 p.198で紹介されています。
しかし1936年に重要な論文が発表されます。まず、アラン・チューリング(Alan Mathison Turing)の「On computable numbers, with an application to the entscheidungsproblem」(計算可能数とその決定問題への応用)。ついで12月、日本電気の中嶋章と榛澤正男が「継電器回路に於ける單部分路の等價變換の理論(其一)」を発表。この中嶋・榛澤論文で、ブール代数による論理演算が電子回路で実行可能なことが史上初めて示され、コンピュータ時代の幕が開きます。
1937年にハワード・H・エイケン(Howard Hathaway Aiken)は計算機械の構想を発表。1944年に完成した、そのアメリカ初の電気機械式計算機「Automatic Sequence Controlled Calculator」(自動逐次制御計算機)は「Harvard Mark Ⅰ」とも呼ばれます。この計算機は主に米海軍で弾道計算や軍艦設計に使われましたが、レンズ設計に関する問題の解決にも使われました。
1946年には、世界初のコンピュータとしてよく知られている、プレスパー・エッカート(John Presper Eckert)とジョン・モークリー(John William Mauchly)による「ENIAC」が発表されました。
1934年から計算機械の開発を進めていたドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)は、1941年にリレー式(電気機械式)計算機「Z3」を完成させ、1949年にツーゼKG(Zuse KG)を設立。同社はエルンスト・ライツの発注を受けて、同社としては最後のリレー式計算機「Z5」を開発して1952年に納入しています。この後、ツーゼKGは開発を電子式に転換し、「ZⅡ」、「Z22」、「Z23」などのコンピュータはレンズ設計用としてヨーロッパの多くの光学企業が導入しました。また、日本光学も日本企業としてはかなり早い時期にツーゼの計算機を導入していたことが、ニコン・更田正彦顧問(1996年当時)の証言に伺えます(遠藤諭『計算機屋かく戦えり』・同『新装版 計算機屋かく戦えり』ともにp.181)。
日本では富士写真フイルムの岡崎文次がレンズ設計の計算を目的に1949年3月に開発に着手、1956年3月初めに日本初のコンピュータ「FUJIC」を完成させ、稼働を開始しました。しかし、社外からの注目は開発中から高かったにもかかわらず社内の反応は冷淡で、同社はわずか2年半後にFUJICを早稲田大学に寄贈し、社外に事実上“投棄”しました。レンズ設計の社内体制が変わったためとされますが、当時、レンズ設計体制の変更自体がFUJIC開発への懲罰ではないかと疑う見方が囁かれていました。
戦争が終わってしばらく後、1950年代になると、日本国内では Simlar 5cm F1.5 に範を取ってゾナー前群を導入した変形ガウスタイプのレンズが、Serenar 85mm F1.5 Ⅰ(1952年)、Takumar 83mm F1.9(1953年・1957年、ゾナーとする雌山亭やアサヒペンタックスSシリーズ博物館の記述は誤り)、G.Zuiko 4.5cm F1.9(山田幸五郎『光学の知識』よりp.170、おそらく1956年1月発売の「オリンパス35-S 1.9」)など、各社から相次いで発売されました。当時の日本のレンズ設計者の多くは、オリジナルの設計を始めるに当たって、富田良次のシムラーの発想を叩き台にして、そこからスタートしていたわけです。
1957年の Takumar 58mm F2 も、この流れの中で投入された変形ガウスタイプのレンズのひとつで、シムラーに倣ったゾナー前群に変形ガウスの、と言うか、クセノタータイプの後群を合体させた構成です。同様の、第2群を3枚接合・第3群を凹メニスカスの単エレメントとした4群6枚構成の変形ガウスタイプの設計は、キヤノンの伊藤宏も1956年に行っています。
日本のレンズ設計黎明期の実態は、いわゆる「ニコン神話」にマスキングされて見えにくくなっています。ちなみに、三木淳がデイヴィッド・ダグラス・ダンカン(David Douglas Duncan)を撮ったレンズについて、D.D.ダンカンは Nikkor-S·C 5cm F1.5 だったはずだと証言しています(アサヒカメラ2008年7月増大号 p.249~253、「<ニッコール75周年> デビッド・ダグラス・ダンカン ─ニッコール伝説を語る─」)。ニコンがニコン創立100周年記念の一環としてニコン公式チャンネルで公開したインタビュー動画「デイヴィッド・ダグラス・ダンカンとの出会い」でも、D.D.ダンカンは Nikkor P·C 8.5cm F2 の名を出していません。
クセノタータイプは、C.G.ワイン(Charles Gorrie Wynne)の「ユニライト」(Unilite)に始まります。
1944年、ガウスタイプの後群・第3群の接合を分離した設計を進めていたC.G.ワインは、分離した凹レンズを、絞りに向かって深い凹面を持つ凹メニスカスにしたところ、分離した凸レンズが不要になることを見出しました。これがユニライト、シネ・ユニライト(Cine Unilite)で、1945年には撮影倍率1/4倍でF1の明るさを持つCRT管面撮影用レンズも開発されました。
このレンズ構成が他社でも採用されるようになり、そのひとつが、1952年にギュンター・クレムト(Günther Klemt)とカール・ハインリヒ・マッハー(Karl Heinrich Macher)が設計した「クセノタール」、Xenotar 80mm F2.8 です。このレンズ構成が今日「クセノタータイプ」と呼ばれる、変形ガウスタイプのバリエーションです。この構成を中川治平はこう解説します。
もともとガウスタイプは接合面前後の屈折率差が小さいので、正負レンズが同じガラスになるよう最適化しても、クセノタータイプに到達する。
中川治平,深堀和良 『レンズテスト[第1集]』 p.36
一方で、小穴純・東大教授が、この構成をビオター型の前玉とトポゴン型の後玉とを組み合わせた一つの混血児と考えるのが適当と思う。と見る解釈を提唱した(アサヒカメラ1954年7月号「優秀な混血児」初出、『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.186。この当時は一般の写真愛好家の間では、ガウスタイプを「ビオター型」と呼ぶのが一般的だったようです)ことから、日本ではクセノタータイプを、ガウスタイプにトポゴン(1933年、ロベルト・リヒター Robert Richter、ドイツ特許 Nr.636167・英国特許 No.423156・米国特許 No.2031792)を合わせて開発された新構成とする捉え方が根強く、クセノタータイプを変形ガウスタイプとは別物と見なして非常に神経質に峻別したがる傾向があります。小穴教授は同時に
ビオメタール型レンズと呼ぶことにしたい。とも提唱したのですが、こちらは定着しませんでした。
1961年1月発売のキヤノネットの「CANON LENS SE45mm F1.9」は4群5枚の典型的なクセノタータイプですが、これを当時、キヤノンは
ガウスタイプとトリプレットタイプとを融合させて設計した、まったく新しい変形ガウスタイプに属するレンズと公式に発表していました(アサヒカメラ1961年4月号「ニューフェース診断室」初出、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡』 p.35)。この、ガウスタイプの前群にトリプレットの後ろ2枚を折衷したとするクセノタータイプの構成解釈は、しかし、これ以降、今日に至るまで全く顧みられることがありません。
さて、キヤノンの伊藤宏も、富田良次のシムラーに感銘と刺激を受けた設計者の一人です。伊藤はシムラーの設計を見て、この4群7枚構成からレンズを1枚減らせないかと考えました。そして設計を進めて、ついにガウスタイプのコマ・フレアの発生原因を突き止めるに至りました。ダブルガウス4群6枚の第3群、4枚目のレンズの被写体に向けた凹面の曲率が高次のコマ収差、コマ・フレアの発生に関わっているという発見です。その発見を理論化して設計したのが、1950年11月7日に出願した特願昭25-14340・特公昭28-6685、日本国特許第205109号(米国特許 No.2681594)、1951年11月発売のキヤノン初のオリジナル設計のレンズ「Serenar 50mm F1.8」です。見かけはシンプルなガウスタイプ4群6枚のセレナーの設計について、キヤノンの鈴川溥がアサヒカメラ1954年3月号の記事、「対談・国産レンズを語る(その3)」で平易に解説しています。
結局、コマの収差は、4番目のレンズの最初の面の曲率が強過ぎるのが原因だということが分かりまして、その曲率をゆるくしたわけです。そうしますと、その面は球面収差を担当してる面なので、今度は球面収差が補正不足になってきます。そこでこんどは2番目と3番目のレンズの屈折率を今までと逆にして、しかもその差を非常に大きくしたわけですね。そうすることによって、張り合わせ面に凹の作用を与えて、そこで球面収差の補正を担当させた。そうすると、こんどは非点収差が残ってくるわけです。これを取るために4番目と5番目の屈折率の差を前より大きくしまして、そこで非点収差も取ってしまいます。そうしてコマ収差によるフレアを取ったんですね。(中略)
ガラスの屈折率の配置は変えております。見たところはいかにもビオター型なんですが、内部の屈折率配置、それから収差の分担状態は、ビオター型のように絞りに対して対称型でなくなっているわけです。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.215
アサヒカメラ1954年3月号再録
第2群をシムラー同様の3枚接合としている1952年発売の Serenar 85mm F1.5 Ⅰも、この理論展開を応用して設計されたレンズです。アサヒカメラ1954年3月号再録
この当時、東大の小穴純教授の研究室で、4群6枚のセレナー50mm F1.8と、6群7枚のズミクロン5cm F2のフレア(ハロ)の測定が行われました。その結果、セレナーの開放時F1.8のフレアはズミクロン開放時F2より多いものの、F2から最小絞りまで、フレアの少なさでセレナーがズミクロンを上回るという結果が出ました。そしてこのデータの隅には「このハロの多さがズミクロンが嫌われる理由」と朱書きされていると、これも小倉磐夫 『カメラと戦争』 に記されています(朝日文庫版 p.208~211)。
ガウスタイプのコマ・フレアとの苦闘は、3枚接合のゾナー前群導入が契機となって原因の解明へと繋がり、バックフォーカスの短いレンジファインダー機においては、ここに一応の決着を見ました。伊藤宏には、コマ収差除去の功績を讃えて、1980年(昭和55年)の春の叙勲で紫綬褒章が授与されました。ガウスタイプはこの後、今度は一眼レフの長いバックフォーカスと戦うことになります。1957年の Takumar 58mm F2 は、その緒戦に、富田良次のシムラーの発想を出発点に、それを当時注目されていたクセノタータイプに応用した設計で臨んだのだろうと想像します。
(文中敬称略)
MAX FACTORY 1/7scale “みくずきん” (Mikuzukin)
Asahi Optical Co. Ltd. Takumar 58mm F2, F2
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ (ISO 200, A mode)
Takumar 58mm F2, F2.8
Takumar 58mm F2, F4
Takumar 58mm F2, F5.6
Takumar 58mm F2, F8
至近距離での撮影も理由だとは思いますが、開放時の画質は甘いのでライブビューではピント合わせに苦労します。開放ではコントラストも低いのでフォーカスピーキングもあまり役に立ちません。色収差やコマ収差は開放でもF2.8でも目立ちますが、マイクロフォーサーズではF4に絞ると目立たなくなります。「ニューフェース診断室」が初校で開放時の画質を酷評していたというのがよく理解できます。コントラストはF5.6が最も高いようです。ピント移動は、実絞りで合わせてから絞りを開放に開けると、かなり大きな移動が見えます。
Takumar 58mm F2 の構成図を見て、その第2群の3枚接合だけに目を奪われて脊髄反射的に「ゾナーである」と主張するコレクターが、雌山亭、アサヒペンタックスSシリーズ博物館、Frühe lichtstarke Objektive、산들산들、kuuan、Pentax Forum のレビュー、PentaxForums のスレッド、Manual Focus Lenses のスレッド、ClubSNAP のフォーラム、 Digital Photography Review のスレッド、Pentax User のレポート、Sample-Image.comなど、国内外に大勢いらっしゃるのですが、しかしゾナーは、トリプレットからエルノスターを経て派生したレンズ構成で、またテッサーを拡張したとする設計(注)もありますが、つまりはゾナーの要件は3枚接合の有無ではなく、パワー配置がトリプレットから引き継がれた非対称な構成になっていることです。Takumar 58mm F2 はパワー配置が対称なのでゾナータイプには当たりません。ゾナーの前群は前述の通り、ガウスの前群と
本質的な差がない以上、ゾナーかガウスかの判別は後群を見る必要があります。そして Takumar 58mm F2 の後群はゾナーとは異なり、まさしく変形ガウスタイプ、クセノターの後群なのです。これをゾナーと言いつのる人々は、3枚接合だけを見て、後群を真面目に見ていないのです。
(注 : ドイツ特許 DE2419140・米国特許 No.3994576、エルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel),ハインツ・ツァヤダツ(ハインツ・ザジャダス Heinz Zajadatz)、1974年4月20日)
ゾナーの構成について、オールドレンズのコレクターやマニアの間では、一例を挙げると、雌山亭の文章
「ゾナー」というのは、この「エルノスター」の2枚目と3枚目の空間をレンズで埋めた3枚貼り合わせの構成で、(中略)「エルノスター」の4枚目凸を貼り合せ「ダブレット」にした望遠レンズも、ツァイスは「ゾナー」と称しているのような俗説が信じられているらしく、アサヒペンタックスSシリーズ博物館が言う、
実際、現代の基準では、ゾナーに属すると思われます。とする見方の「現代の基準」とやらも、
2群めが3枚貼り合わせの、正真正銘のゾナータイプレンズです。という言葉から、同じものと見られます。この説、即ち「エルノスターの2枚目と3枚目の間をレンズで埋めた3枚貼り合わせ」が正しいなら、ゾナーとされるレンズ構成の3枚接合から真ん中のガラスを抜くとエルノスター(あるいはチャールズ・C・マイナーの構成)になるはずです。なるほど、ベルテレのゾナー5cm F2、同F1.5の構成図で試してみるとそんな感じになりますが、Takumar 58mm F2 の第2群から真ん中のガラスを抜いてみたところで、どこからどう見ても変形クセノターで、どう頑張ってもエルノスターには見えません。つまり、この「現代の基準」とやらを以てしても、Takumar 58mm F2 をゾナーと見なすことはできないと言えます。
さらに言えば、この「現代の基準」とやらでは、1970年代から現代に至る、ツァイス以外のゾナータイプのレンズや3枚接合がないゾナー(例えば、Nikon ピカイチ L35AF、Makro-Sonnar T* 100mm F2.8、Sonnar T* FE 55mm F1.8 ZA、Sonnar T* FE 35mm F2.8 ZAなど)が、どうしてゾナーなのか、説明できません。そもそもベルテレはゾナー5cm F2の設計時に、明るさをF2.8に抑えた3枚接合のない3群5枚構成のゾナーも検討しているのです(米国特許 No.1998704 ExampleⅡ / Fig.2)。従って、“3枚接合がありさえすれば他の群は全く無関係に十把一絡げの問答無用であれもこれもみんなゾナー”などとやらかしかねない「現代の基準」とやら(実際にやらかしてしまっているわけですが)は、ゾナーの定義とは見なし得ないと考えざるを得ません。
このレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました。という旭光学の発表文は、本エントリーの始めで紹介したエピソードからお判り頂けるかと思いますが、松本三郎社長以下、当時の旭光学の全社員の血と汗と涙が滴り自負が漲っている文言でもあります。徒やおろそかにしていいものではありません。“バックフォーカスの長さが必要な一眼レフでは各社とも標準レンズをゾナーでは作り得なかった。しかし一眼レフのパイオニアたる旭光学のみゾナーの標準レンズを送り出し得た。偉大なるかな旭光学 ! ”などというストーリーをでっち上げてロマンティシズムに耽溺したいお気持ちは、全く分からないではありませんが、神話の捏造は厳に慎むべきです。また、オークションなどで “一眼レフの標準レンズで唯一のゾナーです! ”などと煽れば、集客しやすく価格もつり上げやすいのでしょうけれど(eBayやヤフオク!など、正当な評価とは言えない高値が付く例が散見されるように思います)、詐欺的商法ではないかと疑われた場合、返せる言葉はあるでしょうか。
編集履歴:
2018年5月7日 公開。
参考資料(順不同):
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272140-5 C9472 ¥1800E・2000年12月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272139-1 C9472 ¥1800E・2000年10月1日発行)
アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)
アサヒカメラ 2008年7月増大号(朝日新聞社・4910014030787 00876・2008年6月18日発売,2008年7月1日発行)
カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦(小倉磐夫・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261309-2 C0120 ¥580E・2000年9月1日 第1刷)
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新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1995年10月17日 新装版第1刷)
クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)
クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ·キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-17 [復刻]明るい暗箱(荒川龍彦・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12027-4 C0072 ¥1700E・2000年6月15日 第1刷)
クラシックカメラ選書-22 レンズテスト[第1集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12032-0 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-41 トプコンカメラの歴史 カメラ設計者の全記録(白澤章成・朝日ソノラマ・ISBN978-4-257-12051-3 C0072 ¥1900E・2004年4月20日 第1刷)
科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日)
カメラマンのための写真レンズの科学(吉田正太郎・地人書館・ISBN978-4-8052-0561-7 C3053 ¥2000E・1997年6月20日 新装版初版第1刷,2014年6月10日 新装版初版第5刷)
光学の知識(山田幸五郎・東京電機大学出版局・ISBN4-501-60390-9 C3042 P3296E・1966年2月25日 第1版1刷,1996年11月20日 第1版19刷)
図解 カメラの歴史 ダゲールからデジカメの登場まで(神立尚紀・講談社・ブルーバックス B-1781・N.D.C.742 246p 18cm・ISBN978-4-06-257781-6 C0253 ¥900E・2012年8月20日 第1刷,2012年9月24日 第2刷)
カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス·レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)
コンタックスのすべて Auf den Spuren der Contax 1932-1945,1945-1982(ハンス·ユルゲン·クッツ Hans-Jürgen Kuc・株式会社 カツミ堂写真機店・ISBN4-257-04008-4 C0072 P9000E・1993年12月25日 第1刷)
新・ニコンの世界(浅香良太,長野真,田尻敦子,荻野行男,清水義範,川村光暁,日本光学工業株式会社カメラ営業部販売促進課,大日本印刷株式会社CDC事業部,手嶋毅,三枝俊文・日本光学工業株式会社 カメラ営業部・1979年9月1日 初版,1980年8月20日 第4版)
Nikon Nice Shot RELEASE(浅香良太,上村悦子,平カズオ,高橋周平,滝田恵,長野真,那和秀峻,内田泉・株式会社ニコン カメラ事業部・1987年4月1日 初版,1990年12月15日 第6版)
A COMPUTER PERSPECTIVE 計算機創造の軌跡(The office of Charles and Ray Eames・山本敦子 訳・和田英一 監訳・株式会社アスキー・ISBN4-7561-0175-5 C3055 P3900E・1994年3月1日 初版)
計算機屋かく戦えり(遠藤諭・株式会社アスキー・ISBN4-7561-0607-2 C3055 P2400E・1996年11月10日 初版,1997年2月20日 第1版第3刷)
新装版 計算機屋かく戦えり(遠藤諭・株式会社アスキー·メディアワークス・ISBN4-7561-4678-3 C3004 ¥2200E・2005年11月15日 初版,2012年9月14日 第1版第2刷)
コンピュータ 写真で見る歴史 THE COMPUTER An Illustrated History(クリスチャン·ワースター Christian Wurster・タッシェン·ジャパン株式会社 TASCHEN GmbH・ISBN4-88783-174-9 C0004 ¥3000E・2002年12月31日 第1刷)
コンピュータ史(小林功武 監修・小田徹 著・株式会社 オーム社・1983年1月30日 第1版第1刷,1986年2月10日 第1版第3刷)
誰がどうやってコンピュータを創ったのか?(星野力・共立出版株式会社・ISBN4-320-02742-6 C3041 ¥2136E・1995年6月14日 初版1刷,1997年9月20日 初版4刷)
ニッコール千夜一夜物語(Web Archive)
魔女たちの眼に映るもの 菊とカメラ Asahi Opt. Takumar 58mmF2 @F5.6(保存版)
Leica Wiki (English)
キヤノンカメラミュージアム
黎明期のコンピュータ - コンピュータ博物館
レンズマン・シリーズ6 三惑星連合軍 Triplanetary(E.E.スミス Edward Elmer Smith・小西宏 訳・東京創元社/創元推理文庫・ISBN4-488-60306-8 C0197 ¥480E・1968年11月8日 初版,1983年3月25日 24版)
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ニッコール千夜一夜物語(Web Archive)
第十九夜 Nikkor-S・C 8.5cm F1.5(Web Archive)
第三十三夜 ピカイチ L35AF・35mm F2.8(Web Archive)
第三十四夜 NIKKOR-H・C 5cm F2(Web Archive)
第三十六夜 Nikkor P・C 8.5cm F2(Web Archive)
第四十夜 Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4(Web Archive)
第四十四夜 Nikkor-S Auto 50mm F1.4(Web Archive)
第四十九夜 Nikkor-S Auto 55mm F1.2(Web Archive)
第三十三夜 ピカイチ L35AF・35mm F2.8(Web Archive)
第三十四夜 NIKKOR-H・C 5cm F2(Web Archive)
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