1972年、オリンパス光学工業株式会社(2003年10月に「オリンパス株式会社」に社名変更)は、米谷美久氏の指揮の下に「一眼レフの三悪の追放」を掲げて5年の歳月をかけて開発した一眼レフ「OLYMPUS M-1」を、5月24日にプレス発表、6月19日にホテルオークラ“平安の間”で発表会を催した後、7月1日に発売を開始しました。「三悪」とは、従来の一眼レフでは当たり前だった「大きい・重い・撮影時の音やショックが大きい」の三つの欠点を指し、その克服を目指して小型化を実現した M-1 の横幅は、偶然にもバルナック・ライカの LeicaⅢf と同じ136mmでした。
西ドイツで同年9月23日から9日間の会期で開催されたフォトキナの会場で、ミノルタの設計部長(当時)で毒舌家としても知られた吉山一郎氏に「おめでとう、よくやったね。しかし、月夜の晩ばかりと思うなよ!」、営業から一眼レフをもっと小さくしてほしいと言われていたが、これ以上はできないと言ってきたのに、こんなに小さな一眼レフを作られてしまって、私の立場をどうしてくれる、という逆説的な祝辞を受けたことを、米谷氏は『一眼レフ戦争とOMの挑戦』(朝日ソノラマ)の p.140 に書いています。
「宇宙からバクテリアまで」を標榜して開発が進められていた「M-SYSTEM」=マイタニ(米谷)・システムの構築もスタート。28mmから300mmまで、フィルター枠の先端が銀色に輝く鏡胴デザインの交換レンズ14本が M-1 と同時に発売されました。標準レンズ「M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」は、その最初の14本のひとつです。
小型化を命題として開発が進められたMシステムは、レンズにも小型化を迫りました。Mシステム開発着手時に米谷美久氏から、画質を向上させつつ小型化するよう求められたレンズ設計部次長の早水良定氏は、大学で航空工学を専攻したものの戦後に技術者の職がなく、女子高の教諭を務めながら光学研究を学会に発表していたところ、その熱心さを買われてオリンパスにスカウトされたという人物で、鮮鋭な描写でハーフサイズとは思えない画質を実現した「オリンパス・ペン」(1959年10月)のレンズ、D.Zuiko 2.8cm F3.5 の設計者としても有名です。その早水氏の下でMシステム・ズイコー交換レンズ群の設計の中核を担ったのは中川治平氏で、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も中川氏が設計したレンズのひとつです。
G.ZUIKO の「G」はアルファベットの7番目で、このレンズが7枚構成であることを示し、「AUTO」は自動絞りを、その後の「S」は "Standard"、つまり標準レンズであることを示します。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割し、2枚目と3枚目のレンズの間に空気レンズを挟んで6群7枚とした変形ガウスタイプです。フィルター枠が銀色なので、このモデルは「銀枠」または「銀縁」と呼ばれます。
この銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計に当たる特許は1972年5月4日に特願昭47-44325の出願番号で出願され、74年1月18日に特開昭49-5620が公開、75年11月19日に特公昭50-35813が公告され、日本国特許第821334号として成立しました。なお、米国特許はNo.3851953(PDF)、ドイツ特許はDE2322302です。
特公昭50-35813には、こうあります。
左 : G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(銀枠) 右 : NIKKOR-S Auto 50mm F1.4
特許記載の球面収差図は d線(587.56nm)と g線(435.835nm)の二つですが、吉田正太郎氏はそのほかに e線(546.07nm)、C線(656.27nm)、F線(486.13nm)の球面収差も算出した上で、『カメラマンのための写真レンズの科学』(地人書館)の p.135 に、こう書いています。
そして。
M-1 と M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の発売後にこのレンズ(シリアルナンバー 100606)を購入してテストした『アサヒカメラ1972年10月号』(朝日新聞社、1972年9月18日発売)の「ニューフェース診断室」で、通産省工業技術院機械技術研究所の深堀和良氏が実測・作成した球面収差図は、『カメラマンのための写真レンズの科学』でのg線の図に似たカーブを描きました。
その収差図は、中心からF2.8に向かって-0.1mm程度の補正不足に傾き、そこからF2より外側までにかけては補正過剰側に戻ろうとしながらも-0.1mm弱の補正不足量をほぼ保ち、そして最外縁に向かって再び補正不足量がわずかに増すという複雑なカーブを描き、全域でわずかに補正不足を保つS字状曲線を示しています。それまでの国産一眼レフ用の大口径標準レンズでは、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 が典型ですが、レンズ最外縁では大きく過剰補正として、開放から1段ほど絞ると球面収差がほぼなくなる、いわゆる「解像重視設計」が普通でしたが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の球面収差は全く異なり、コントラストを重視したアンダーコレクションの収差補正になっています。
この球面収差を、「ニューフェース診断室」はこう評しています。
このような、球面収差をS字状カーブのわずかな補正不足とする方法は、二つあります。
ひとつは非球面の導入で、NOCTILUX 50mm F1.2、Ai Noct-NIKKOR 58mm F1.2、Canon FD85mm F1.2 S.S.C. Aspherical などがS字状カーブのアンダーコレクションになっています。
もうひとつの方法は、レンズの収差を、意図的に発生させた高次収差で打ち消す、「高次の収差補正」という技術です。SUMMILUX-M 50mm F1.4後期型は第5群の、物体側に向かって凹の曲率の強い接合面で高次収差を発生させて、球面収差および波長による球面収差の差を補正しています(SUMMILUX-R 50mm F1.4 はこの手法を使わず、補正過剰量をごくわずかに抑えてほぼ完全補正としたシンプルなカーブになっています)。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も、おそらくこの技術です。ただし、この手法なら必ずアンダーコレクションになるわけではなく、Sonnar 50mm F1.5 や NIKKOR-S·C 5cm F1.4 は実測データを見ると非常に大きな過剰補正ですし、NIKKOR-S Auto 55mm F1.2 も補正過剰の解像重視設計です。この手法でS字カーブのアンダーコレクションにまとめている国産レンズは、この1972年の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 以前はマクロレンズ以外には、一般撮影用の大口径標準レンズでは例が非常に少なく、1953年に土居良一氏が設計した FUJINON 5cm F1.2(特公昭31-477・米国特許No.2718174)ぐらいではなかったかと思います。
ですが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のこの収差補正は、どうも意図して狙ってやったものではなかったようです。「ニューフェース診断室」での測定データについて、後に設計者の中川治平氏自らが『レンズテスト[第1集]』(朝日ソノラマ)の p.168~169 で次のように解説しています。
アサヒカメラ「ニューフェース診断室」の、球面収差以外についての指摘も以下に抜粋しておきます。
また、この評で、テストされたシリアルナンバー 100606 の個体に偏心があったことが指摘されていますが、2枚目と3枚目を分離したガウス型レンズの構成について、キヤノンのレンズ設計者の辻定彦氏は『レンズ設計のすべて』(電波新聞社)の p.95 で、一般論としてこう解説しています。
以上から、銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(No.100606)の数値をまとめておきます。
ちなみに、SUMMILUX-M 50mm F1.4(No.2346125)の『アサヒカメラ1972年1月号』初出の測定値をまとめると、以下の通りです。
さて。西ドイツ、ケルンで1972年9月23日に開幕したフォトキナですが、その3日目、9月25日に事件が起こります。オリンパスの出展ブースにいた米谷氏の元に、ライツ社の代表を自称する3人が訪れて、M-1 のカメラ名はドイツの登録商標になっている Leica M3 に抵触しているとする口頭での抗議を行いました。しかしこれは筋の悪い主張で、商標の登録はアルファベット1字+数字1字では新規性がないとして受理されません。従ってそれぞれのカメラの商標は「M-1」「M3」ではなく、「OLYMPUS M-1」「Leica M3」ですから、そもそも抵触するはずがないのです。米谷氏はこのことをライツの3人に対して主張したものの、相手は聞く耳を持たず、強硬に抵触を主張しました。そこで、「M-1」の前に何かもう1字つけ加えるという打開策を提案したところ、3人は矛を収めて引き揚げていきました。
このとき「OLYMPUS M-1」は商標登録申請中で、後に登録されました。
この抗議の裏に何があったのかは全く不明です。ライツはこの年、1972年の6月に、1969年のフォトキナ会期中に交渉を始めて1971年に合意に達し契約に署名していたミノルタとの提携を正式に発表し、この時期は、"Leica MC"のコードネームでライツのヴィリー・シュタイン(Wilhelm Stein)のグループが構想し開発していたレンジファインダー機、小型(Compact)で軽量(Light)で価格も手ごろな“フォルクスライカ”を、ミノルタの提言で「Leica CL」(LEITZ minolta CL)と名付けて、生産をミノルタが担当して発売する準備が進んでいた時期でもあります。小型・軽量のコンセプトを先に実現されたことに苛立ったのか、あるいは、LeicaⅢf と同じ横幅のカメラの名称に「M」を冠したことを、肥満体と化してしまった Leica M5 に対する当てつけと勘ぐったのかもしれません。エーミール・G・ケラーは、ライツも開発計画の再検討を迫られることになったと、『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』(光人社、p.214)に記しています。
事の顛末と名称変更のことは、フォトキナ終了後にオリンパスの常務会に報告されて了承されたものの、直後の企画会議では結論が出ず、名称立案小委員会が開かれることになりました。10月20日に開かれたその委員会の会議は議論百出で紛糾、名称変更の候補としてAからZまで全アルファベットを当てて検討して、激論の末に「UM」と「OM」が残り、最終的に「OM」が採択されました。この結論を受けて、1973年5月末から、カメラ名は「OM-1」、システム名称は「OM-SYSTEM」へと変更されました。銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も銀枠のまま、光学設計も変わることなく、ただレンズ銘だけが「OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」に変わっています。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F5.6
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ(ISO 200, A mode)
Good Smile Company, 1/8 Scale “初音ミク V4X” (Hatsune Miku V4X)
この銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は放射能レンズ(トリウムレンズ)としても有名です。手持ちの個体(シリアルナンバー 156670)は、アトムレンズのページにも書きましたが、前玉側 6.55 µSv/h・後玉側 0.83 µSv/h のガンマ線を検出しました。ところが、この銀枠モデルは後に硝材が変更されています。
手元にある別の銀枠の個体、シリアルナンバー 5092xx を計測したところ、前玉側 0.08 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、計測時にあらかじめ測っておいたバックグラウンド値(0.08 µSv/h)と変わらない数値を得ました。つまり、放射能レンズではなくなっています。また、写真家の安孫子卓郎氏の『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』によると、銀枠のシリアルナンバー 326264 の個体の放射線量率は前玉側 3.26 µSv/h・後玉側 0.43 µSv/h と明らかにトリウムレンズなのに対して、銀枠のシリアルナンバー 508166 の個体は、前玉側 0.15 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、概ねバックグラウンド値と思われる低い数値になっています。
シリアルナンバー 156670 と同 5092xx のレンズの反射像を比べると、反射像の出方自体は特に違いが見られないことから曲率に目立った変更はないと思われ、しかし前玉の反射像の色がはっきり違う(156670 の前玉側反射像はオレンジ色に近く、5092xx の前玉側反射像は青みが強い)ことからコーティングに違いがある=硝材が透過しやすい色域に違いがあると思われ、このことから、光学設計はそのままで硝材のみ変更されたと断定して、まず間違いないと考えます。安孫子卓郎氏も『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』で、描写に
1973年までに発売が始まった日本製レンズには放射能レンズが多く見られますが、1974年以降に新しく発売されたモデルには見られません。この時期に公害防止を目的とした硝材成分の規制が始まっていますが、経過措置が認められていたらしく、1973年までに発売された放射能レンズの一部は、1975年前後ぐらいまでトリウムガラスのまま生産・販売を継続していたようです。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F5.6
オリンパスは1975年11月、世界で初めてTTLダイレクト測光を実現した一眼レフ「OM-2」を発売しましたが、ズイコー交換レンズ群の鏡胴デザインが変更されたのはこれよりかなり遅かったらしく、フィルター枠が銀枠ではなく黒枠になったのは、おそらく1977年の後半以降と思われます。OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 もレンズ銘はそのままで黒枠に変わるのですが、その変わり目のシリアルナンバーがはっきりしません。ネット上の中古製品画像を見たところ、シリアルナンバー 532577 の個体(archive.today)は銀枠で、シリアルナンバー 564968 の個体(archive.today、商品ページ中の
ですが、このレンズが変わったのはフィルター枠の色だけではありませんでした。
まず黒枠モデルで目立つ違いは、レンズの長さが長くなったことです。銀枠モデルはマウント面からフィルター枠先端までの長さが公称 36mm、手持ちの銀枠の個体2本を距離指標を無限遠に合わせた状態で実測したところ、36.8~37.0mm でしたが、黒枠モデルを同じ条件で実測したところ、39.8mm ありました。これは単に鏡胴だけ長くなったのではないことは、両者を並べてみると前玉前面の凸面中心部が、黒枠モデルの方が前に出ていることから分かります。質量は銀枠・黒枠とも公称 230g ですが、実測では銀枠が 227g、黒枠が 229g です。
両者を並べてみると、もう一点分かります。前玉前面の凸面の曲率が違い、黒枠モデルの方が曲率が強いのです。これは光源をレンズに当てて反射像を見ても分かります。銀枠モデルと黒枠モデルでは、反射像の出方が大きく違うのです。
長さについて、もうひとつ。レンズマウント外刃の後面から後玉支持枠先端までの長さも違います。銀枠モデルが 1.2mm なのに対し、黒枠モデルは 2.0mm と、0.8mm 長くなっています。つまり、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は銀枠モデルよりバックフォーカスも短くなり、光学系の全長自体が長くなっているのです。
さらに、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が現役製品だった同時代の出版物を調べてみて、レンズ構成図にも違いがあることが分かりました。『アサヒカメラ1972年10月号』の「ニューフェース診断室」に掲載されていた銀枠モデルの構成図では、第4群の接合面が物体側に向かって凹面でしたが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』(毎日新聞社)の p.85 に掲載されている構成図は、第4群の接合面が物体側に向かって凹ではなくなっています。加えて、『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の「各社一眼レフ交換レンズ総カタログ」p.82 のこのレンズの項に、
M-1 発売当時にフローティング機構、当時のオリンパスは「遠距離近距離収差補正機構」と呼んでいましたが、この機構を採用していた銀枠のレンズは、18mm F3.5、24mm F2、28mm F2、50mmマクロ F3.5、85mm F2といったところで、銀枠の 50mm F1.4 には採用されていませんでした。『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記述が事実なら、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は遠距離近距離収差補正機構を採用していることになります。
以上から、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、以前の銀枠モデルとは光学設計が異なっていると考えるほかありません。では、どんな改設計が行われたのでしょうか。
1975年6月14日、銀枠モデルと同じ中川治平氏の光学設計になる大口径標準レンズの特許が出願されました。特願昭50-72257のこの出願は、1976年12月20日に特開昭51-148421の番号で公開され、1983年4月11日に特公昭58-17929として公告、そして日本国特許第1185792号が成立しました。同設計の米国特許はNo.4094588(PDF)、ドイツ特許はDE2626336です。
特公昭58-17929の記述を見てみます。
特公昭58-17929の記述から、この改設計は、コマフレアの除去と、球面収差を抑え、同時に波長による球面収差の違いを抑えること、および撮影距離の違いによる収差の変動を抑えることを目的としていたことが分かります。また、特公昭58-17929記載の球面収差図は特公昭50-35813とはやや異なり、g線とd線の曲線がよく揃い、『アサヒカメラ1972年10月号』ニューフェース診断室で実測・掲載されたS字カーブのアンダーコレクションの補正状態によく似ています。実際の製品でもこのアンダーコレクションの球面収差が維持されていたらしいことが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』p.85 の、
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F5.6
モノコートだった黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、NEW OM-1、NEW OM-2(いずれも1979年3月)や OM-10(1979年6月)の発売より少し遅れて、1979年の夏頃にマルチコーティングを施されて、名称も OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 に変わりました。ズイコー交換レンズ群は広角や望遠にF2の明るさのレンズが揃っていて、それらについてはかなり早い時期からマルチコーティングが施されていましたし、50mm F3.5マクロのマルチコート化も既に行われていましたが、標準レンズや価格を抑えたモデルのマルチコート化は、他社に比べてかなり遅いと言えます。しかしながら、1970年代後半には泥沼化した低価格競争で体力を消耗した企業も多く、10面中8面がモノコートのミノルタ MD W.ROKKOR 35mm F2.8(5群5枚、1977年)のように、マルチコーティングに対して腰が引けたところも多数現れていました。
黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、それぞれ手元の個体を実測したところ、外形寸法・質量とも全く同じでした。光源の反射像を観察すると、コーティングの違いによる色の違いはありますが、反射像の出方そのものに大きな違いは見つけられませんでした。
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F1.4
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.0
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.8
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F5.6
OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、おそらく1982年に OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 へと名称が再び変わります。この ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の取扱説明書に記載されているレンズ構成図は、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の構成図と同じです。その後、ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は1990年頃に販売を終了します。レンズ銘は変わっても、黒枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計は最後まで引き継がれていたようです。
銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 から最終モデルの OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 まで、光学設計の違いから前期型と後期側の2バージョンに分けられ、前期型はトリウムレンズか否かで2バリエーションに、後期型はモノコートかマルチコートかで2バリエーションに分けられます。後期型の、特にマルチコート化されたバリエーションでは、現存する中古の個体に程度の良いものがかなり少ないようです。
銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と黒枠モデルで長さが違うことは、Vintage Camera Lenses や Olypedia、Photography in Malaysia など、指摘しているところはいくつかありますが、この事実から光学設計の変更をも指摘されているのは、クラカメと旅(OM標準レンズ)のみでした。ファンサイトとしてよく知られていて、検索でも上位でヒットする OMマニア や オリンパスOMファン、これからもOM、OM推進委員会 などは、見た目の違いに注目して細かくバージョン分けされているにもかかわらず、もっと簡単に分かる長さの違いや反射像の違いには気付けないままで、当然ながら光学設計の違いも指摘できていません。
最終モデルの ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の販売終了が一昔前のこととなった2001年11月、カメラやレンズについての文筆活動でも著名な赤城耕一氏は、双葉社から『使うオリンパスOM』を上梓されました。同書 p.52 において赤城先生におかれましては、わずかな補正不足を保ってS字状カーブを描くアンダーコレクションの球面収差を持つ G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を、かくの如くご紹介あそばされていらっしゃいます。
かつては、数多くの交換レンズや各種アクセサリーを揃えて多彩な撮影用途に対応可能なカメラを「システムカメラ」という和製英語で呼び、1960年代から70年代にかけて、各社ともシステムの拡充に力を入れていました。藤田直道氏は『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記事、「35㍉一眼レフ白書・全システム点検とその魅力」(p.37~73)で「システムカメラ」の語について、
「システムカメラ」というと、“何でも撮れる万能カメラ” とする捉え方が一般的でしたが、米谷美久氏は OMシステムを違う考え方で構築していきました。同じく『アサヒカメラ1979年4月増刊号』掲載の「座談会・各社設計、開発技術陣が語る最新一眼レフの性能比べ」(p.97~105)の中で、米谷美久氏(オリンパス光学 研究開発本部次長)と 倉本善夫氏(ミノルタカメラ 開発部次長・第一開発部門長)は、次のように語っています(肩書きは当時のもの)。
このレンズを設計した中川治平氏は、1977年にオリンパスを退社し、中川レンズデザイン研究所を設立されました。小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』(朝日新聞社)で、レンズ設計者の育成に尽力した功績者として、MAMIYA-SEKOR 80mm F2.8 を設計し改良を続けたことでも知られるマミヤ光機の岡崎正義氏と、そして、この中川治平氏の二人を挙げています。中川氏の薫陶を受けたレンズ設計者は非常に多いそうですが、特にシグマの設計能力の向上に大きな功績があったといいます。事実、Google Patents で Inventor のキーワードを「Jihei Nakagawa」として検索すると、オリンパスの他、シグマの特許がたくさんヒットします。
1990年、ライカカメラ社はシグマの SIGMA 28-70mm F3.5-4.5UC(¥35,000)を、光学設計はそのままで鏡胴デザインのみ異なる VARIO-ELMAR-R 28-70mm F3.5-4.5 としてOEM供給を受けて、シグマの約5倍の¥165,000 で発売しました。『カメラと戦争』朝日文庫版 p.165 に曰く、
ガラスモールド非球面レンズの生産技術と非球面の精密計測技術を開発・確立したパナソニック(2008年10月から。旧社名は松下電器産業株式会社)も、中川治平氏の指導を受けた企業の一つです。1980年、松下電器産業がレンズ設計グループを立ち上げるためにレンズ設計技術の指導者を求めて小倉磐夫教授に接触した際、中川氏を推した小倉教授は、その理由に、中川氏の設計実力は世界の五指に入ると評価していたことに加えて、後進に技術の伝承を繋いでいくことが進歩に繋がるという信念の持ち主であることを挙げていたと、パナソニックの関係者は『非球面モールドレンズに挑む!』(日刊工業新聞社)で伝えています。
中川氏が松下電器のレンズ設計を指導する中で提示した試案に、従来なら13~15枚のレンズ構成となる6倍ズームレンズを、非球面を3面導入して9枚に減らしたものがあったとのことです。特許出願はされませんでしたが、この設計案は世界初の非球面ズームレンズの実設計だったと見られています。中川氏の指導を受けた松下電器産業は、1990年6月にビデオカメラでは初めて非球面レンズを採用して、ガラスモールド非球面レンズ2枚を使ったズームレンズを搭載した「NV-S1」“ブレンビー”を発売、2001年7月24日にはライカカメラ社との提携を発表しました。
2018年9月25日に発表されたパナソニック、シグマとライカカメラ社の「Lマウントアライアンス」も、遡って見てみれば、中川治平氏の指導の賜と言えるのかもしれません。
1972年に銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が発売された当時、すなわち、Carl Zeiss CONTAX Planar T* 50mm F1.4 が発売される1975年11月より前に、オリンパスの他に、国内他社からも過剰補正型の設計を脱した標準レンズがいくつか出てきました。1969年10月21日発売の東京光学・UV TOPCOR 50mm F2(4群6枚)、1972年9月の富士写真フイルム・EBC FUJINON 50mm F1.4前期型(6群7枚)、1973年4月のミノルタ・MC ROKKOR-PG 50mm F1.4(5群7枚)で、オリンパス以外はレンズ最外縁でほぼ完全補正とするシンプルなフルコレクションにまとめていました。これに対し、同じ時期のツァイスの HFT Planar 50mm F1.4 は過剰補正型(オーバーコレクション)の日本的な解像重視設計だったことは以前にも書いたとおりですし、HFT Distagon 35mm F2.8 や Planar 50mm F1.8(HFTではないモノコートモデル、ドイツ特許DE2114176・英国特許No.1339225・特開昭47-37418・特公昭51-21575・日本国特許第847016号)も、やはりオーバーコレクションの解像重視設計、CONTAX Planar T* 85mm F1.4(ドイツ特許DE2315071・米国特許No.3948584(PDF)・特開昭50-8527)も、オーバーコレクションタイプです。
しかし、東京光学は1974年4月の HI TOPCOR 50mm F2(4群6枚)で、富士写真フイルムも1974年4月の EBC FUJINON 50mm F1.4後期型(6群7枚)で、ミノルタは1977年の MD ROKKOR 50mm F1.4前期型(5群7枚・フィルター径55mm)で、それぞれ過剰補正型に戻りました。1970年代の早い時期から35mm判一眼レフ用のF1.4クラス標準レンズを補正過剰に戻すことなくコントラスト重視を一貫して維持し続けたのは、国内メーカーでは、おそらくオリンパスのみと見られ、日独両国を通して見ても、エルンスト・ライツとオリンパスの2社のみと思われます。
現在、オールドレンズを愛好する人々の間では、しばしば “日本の6群7枚構成の標準レンズは CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の模倣” などと言われます。なるほど、確かに Planar T* 50mm F1.4 を意識した設計があることは事実(例えば、ミノルタ・山口民和設計の特開昭53-117420、1977年3月23日出願)ではありますが、それを大風呂敷を広げるようにして一般化するのは果たして適切と言っていいものかどうか、首を傾げるところです。
キヤノンの伊藤宏氏は、アサヒカメラ1993年12月増刊『郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』掲載の座談会(p.119~129)で、
前述のライツとミノルタの提携の際、ライツは1970年に日本へトップの技術者を二人派遣して、日本の光学業界の技術水準を調査しています。その調査でライツは、日本の技術レベルはライツの水準と変わらず、レンズの性能は超一級で、特に小口径と望遠関係で優れており、一眼レフや量産システムも際だって優秀という結論に達しています(『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』 p.209)。その提携のもう一方の当事者であるミノルタ側では、年配の技術者の中に、レンズの相互乗り入れでミノルタ側に持ち出しがあっても恩返しするべきと考えて提携に好意的な人たちがいた一方、若手の技術者は冷ややかだったと伝えられます。ミノルタのレンズ設計者、小倉敏布氏は、ライツが欲しがるレンズは多いが、ミノルタが欲しいレンズはほとんどない、ライツには“書画骨董の類”は多いが没落ぶりは想像以上と感じたといいます(草思社 『めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡』 p.255~262・草思社文庫版 p.293~301)。これはツァイスではなくライツの話ですが、しかしこの通り、1970年代を迎えるよりも前に、日本のカメラ・レンズ業界はドイツを模倣する段階をとっくに卒業していたのです。
CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の設計に当たる、カール=ハインリヒ・べーレンス(Karl-Heinrich Behrens)とエルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel)によるドイツ特許DE2232101C2(1972年6月30日 出願)・米国特許No.3874771(PDF)・特公昭58-57725(日本国特許第1233035号)から、この特許が引用している文献を見ていくと、
と、15の光学設計が引用され,そのうち日本の設計は、5群7枚設計が1、6群7枚構成の設計が8、合わせて9と、全15の内の6割を占めています。このことから、ツァイスの Planar T* 50mm F1.4 の設計は、日本のレンズ設計の強い影響下にあると言っていいと考えます。
この6群7枚の変形ガウスタイプの構成について、日本国内のオールドレンズ関連のサイトでは、これにアルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)の5群6枚のレンズ名を与えて「ウルトロン型」などとする呼び方が見られますが、この構成が成立する過程にトロニエの設計の直接の関わりはなさそうです。ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した5群6枚構成は、オールドレンズを愛好する人々の間では驚天動地の革命的な一大パラダイム転換であったかの如くに非常に大袈裟に語られがちですが、しかしルドルフ・キングズレークは『写真レンズの歴史』(朝日ソノラマ)の p.123 で、その構成のレンズが1930年代初めに多数出てきたと、ごく短く、軽く流すように書いています。接合を分離してそれぞれの面に異なる曲率を与えれば収差がよりよく補正できることは既知の事柄だったようです。トロニエは1930年代半ばになって、そのアイディアを後追いした設計者の一人と見られます。
CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の設計も、それに先立つヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 も、確かに5群6枚の設計も引用してはいますが、共通するのはジョージ・H・エイクリンによる設計であり、ヘルムート・アイスマンの方はもうひとつ、ライツのウォルター・マンドラーとエーリヒ・ヴァークナー(Erich Wagner)のドイツ特許DE1064250(1958年7月21日出願)も引用しているものの、いずれもトロニエの設計は引用していません。
ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)の1930年の設計に基づく Xenon 5cm F1.5(米国特許No.2019985 ・英国特許No.373950)は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割して5群7枚構成としたガウスタイプの最初期の設計のひとつですが、1960年代初めになって、日本光学の脇本善司と清水義之の両氏によって、この構成がバックフォーカスの長い一眼レフでF1.4の明るさの標準レンズを、58mm や 55mm にすることなく 50mm で実現できるものであると突き止められました(特公昭40-386、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4)。
旭光学の風巻友一と高橋泰夫の両氏が出願した6群7枚構成の米国特許No.3451745 と、ヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 を見ると、ともにオットー・ツィンメルマン(Otto Zimmermann),グスタフ・クライネベルク(Gustav Kleineberg),オイゲン・ヘルマニ(Eugen Hermanni)の3名による5群7枚の設計(ドイツ特許DE1045120 ・米国特許No.3012476)を引用しています。つまり、この6群7枚構成は5群7枚構成から派生して、その5群7枚の第2群の接合メニスカスを分離したものです。
なお、このオットー・ツィンメルマン他による特許を、『カメラマンのための写真レンズの科学』は Summarit 5cm F1.5 の設計としています(p.132)。これに従うなら、6群7枚構成に有名なレンズの名前を付けて呼びたいけれど日本のレンズ名では呼びたくない、舶来レンズの名前でないと絶対にイヤだというのであれば、ウルトロンにはご遠慮頂いて、「変形ズマリット型」あたりにしておくのが無難だろうと思います。ただし、写真撮影用レンズの光学設計や歴史を解説した書籍を見ると、5群6枚であれ5群7枚であれ6群7枚であれ、ダブルガウスの最後の正レンズを分割して2枚にした構成も、ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した構成も、「ダブルガウス」「ガウスタイプ」「ガウス型」ないしは「変形ガウスタイプ」「変形ガウス型」としか呼ばれていません。構成分類名称としての「ウルトロン型」とか「変形ズマリット型」などという呼称は存在しません。つまるところ、「ウルトロン型」であれ「変形ズマリット型」と呼ぶのであれ、または他のレンズ名を付けて呼ぶとしても、それらは学問的な裏付けを欠く、オールドレンズ・コレクターの自己満足的な呼び方でしかないことは自覚しておくべきと思います。
作例について。
オリンパスは、このレンズをフォーサーズやマイクロフォーサーズで使用する際の推奨F値を F2.8~F8 としていて、その範囲外での使用は勧められていません。範囲外のF値で撮影した画像は、レンズ設計時に想定されていない画質になっている可能性があります。この推奨F値は、あくまでもフォーサーズ、マイクロフォーサーズの場合に限られるものなので、35mmフルサイズ・デジタルカメラでの使用はF値にかかわらず想定外使用になると思われます。従って、これら非推奨の環境で得られた画質を以てレンズを評価することは慎重であるべきと考えます。
編集履歴:
参考資料(順不同):
西ドイツで同年9月23日から9日間の会期で開催されたフォトキナの会場で、ミノルタの設計部長(当時)で毒舌家としても知られた吉山一郎氏に「おめでとう、よくやったね。しかし、月夜の晩ばかりと思うなよ!」、営業から一眼レフをもっと小さくしてほしいと言われていたが、これ以上はできないと言ってきたのに、こんなに小さな一眼レフを作られてしまって、私の立場をどうしてくれる、という逆説的な祝辞を受けたことを、米谷氏は『一眼レフ戦争とOMの挑戦』(朝日ソノラマ)の p.140 に書いています。
「宇宙からバクテリアまで」を標榜して開発が進められていた「M-SYSTEM」=マイタニ(米谷)・システムの構築もスタート。28mmから300mmまで、フィルター枠の先端が銀色に輝く鏡胴デザインの交換レンズ14本が M-1 と同時に発売されました。標準レンズ「M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」は、その最初の14本のひとつです。
小型化を命題として開発が進められたMシステムは、レンズにも小型化を迫りました。Mシステム開発着手時に米谷美久氏から、画質を向上させつつ小型化するよう求められたレンズ設計部次長の早水良定氏は、大学で航空工学を専攻したものの戦後に技術者の職がなく、女子高の教諭を務めながら光学研究を学会に発表していたところ、その熱心さを買われてオリンパスにスカウトされたという人物で、鮮鋭な描写でハーフサイズとは思えない画質を実現した「オリンパス・ペン」(1959年10月)のレンズ、D.Zuiko 2.8cm F3.5 の設計者としても有名です。その早水氏の下でMシステム・ズイコー交換レンズ群の設計の中核を担ったのは中川治平氏で、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も中川氏が設計したレンズのひとつです。
G.ZUIKO の「G」はアルファベットの7番目で、このレンズが7枚構成であることを示し、「AUTO」は自動絞りを、その後の「S」は "Standard"、つまり標準レンズであることを示します。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割し、2枚目と3枚目のレンズの間に空気レンズを挟んで6群7枚とした変形ガウスタイプです。フィルター枠が銀色なので、このモデルは「銀枠」または「銀縁」と呼ばれます。
この銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計に当たる特許は1972年5月4日に特願昭47-44325の出願番号で出願され、74年1月18日に特開昭49-5620が公開、75年11月19日に特公昭50-35813が公告され、日本国特許第821334号として成立しました。なお、米国特許はNo.3851953(PDF)、ドイツ特許はDE2322302です。
特公昭50-35813には、こうあります。
レンズ系全体の厚みは収差補正にとって重要な意味を持っており、特に大口径化につれて全長を長くしないと良好に収差補正ができないことが知られている。本発明の目的は収差補正を一層良好にしながら、その極限とも云える程その全長を短かくしたレンズを提供せんとするものである。ここで比較参照されている特公昭40-386とはニコンFマウントの NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 で、つまりは「G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 より遙かに小さくなったにもかかわらず、ニッコールより画質が優れる」と公言しているようなものです。確かに、双方の特許掲載の収差図を見る限り、歪曲収差はともかく、球面収差と非点収差は特公昭40-386よりも特公昭50-35813の方が優秀です。
(中略)
本発明レンズにおいては、全長が短かくなることによって悪化する収差の補正は、各群レンズの屈折率を高いものとし、それにも拘らず曲率半径を比較的小さくすることによって達成している。(中略)
本発明レンズと同じタイプで、バックフォーカス、明るさ、画角も本発明レンズのものとほぼ等しい既に知られているレンズの全長Lは例えば、f=1.0,fB=0.75,F/1.4,2ω=46°のレンズではL=1.01であり(特公昭40ー386号参照)、(中略)これに対し本発明のレンズでは(中略)L=0.82723とレンズ長はきわめて短くなっており、従って周辺光量も非常に多い。
左 : G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(銀枠) 右 : NIKKOR-S Auto 50mm F1.4
特許記載の球面収差図は d線(587.56nm)と g線(435.835nm)の二つですが、吉田正太郎氏はそのほかに e線(546.07nm)、C線(656.27nm)、F線(486.13nm)の球面収差も算出した上で、『カメラマンのための写真レンズの科学』(地人書館)の p.135 に、こう書いています。
構造はプラナーT*に良く似ていますが,ガラスはオハラ製です.前方から順に LaSF05, LaSF03, SFS3, SF11, LaSF03, LaK8, Lak8 です.発売がこのレンズより3年以上遅かった Planar T* 50mm F1.4 がズイコーより先のように書かれているのは、『カメラマンのための写真レンズの科学』ではズイコーの前の p.133~134 で Planar T* 50mm F1.4 を解説しているためです。
このレンズのバックフォーカスは74.1で,ツァイスのプラナーT*よりさらに長くなっています.
図4.52はズイコーF1.4の各色の球面収差です.C線の最上部が少し気になりますが,なかなか良好です.F1.5(h=33.3)まで絞れば完全です.
そして。
M-1 と M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の発売後にこのレンズ(シリアルナンバー 100606)を購入してテストした『アサヒカメラ1972年10月号』(朝日新聞社、1972年9月18日発売)の「ニューフェース診断室」で、通産省工業技術院機械技術研究所の深堀和良氏が実測・作成した球面収差図は、『カメラマンのための写真レンズの科学』でのg線の図に似たカーブを描きました。
その収差図は、中心からF2.8に向かって-0.1mm程度の補正不足に傾き、そこからF2より外側までにかけては補正過剰側に戻ろうとしながらも-0.1mm弱の補正不足量をほぼ保ち、そして最外縁に向かって再び補正不足量がわずかに増すという複雑なカーブを描き、全域でわずかに補正不足を保つS字状曲線を示しています。それまでの国産一眼レフ用の大口径標準レンズでは、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 が典型ですが、レンズ最外縁では大きく過剰補正として、開放から1段ほど絞ると球面収差がほぼなくなる、いわゆる「解像重視設計」が普通でしたが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の球面収差は全く異なり、コントラストを重視したアンダーコレクションの収差補正になっています。
『レンズテスト[第1集]』 p.168 より
この球面収差を、「ニューフェース診断室」はこう評しています。
球面収差曲線は(中略)、ライカM5に付属のズミルックス50㍉F1.4のそれによく似た、ちょっと変わった形をしている。しかし収差量は全般的に少なく、そのためF5.6に絞ったときの焦点移動量も0.04㍉(後ピンに写る方向)と小さくてよい。
(中略)
このレンズは、球面収差曲線からも予想されるように、絞り開放でもハロが少ない。
『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』 p.56~57
アサヒカメラ1972年10月号 再録
ここで言及されたアサヒカメラ1972年10月号 再録
ライカM5に付属のズミルックス50㍉F1.4というのは、『アサヒカメラ1972年1月号』でテストされたシリアルナンバー 2346125 の、後期型とか第2世代とか Type2 などと呼ばれているバージョンの SUMMILUX-M 50mm F1.4 で、設計はウォルター・マンドラー(Walter Mandler,ヴァルター・マントラー)、ドイツ特許はDBP1151132、米国特許はNo.3291553です。レンズ構成は数字上は5群7枚ですが、1959年の前期型(Type1)がダブルガウスの最後の凸レンズを2枚に分割したオーソドックスな構成だったのに対し、1961年にシリアルナンバー 1844001 からスタートしたこの後期型(Type2)は前群が3群3枚・後群が2群4枚と、光学設計が前期型とは完全に異なります。にもかかわらず、光学設計を刷新していたことが公表されたのは1966年になってからでした。
『レンズテスト[第2集]』 p.82 より
このような、球面収差をS字状カーブのわずかな補正不足とする方法は、二つあります。
ひとつは非球面の導入で、NOCTILUX 50mm F1.2、Ai Noct-NIKKOR 58mm F1.2、Canon FD85mm F1.2 S.S.C. Aspherical などがS字状カーブのアンダーコレクションになっています。
『レンズテスト[第2集]』 p.125 より
しかし G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は非球面を導入していません。NOCTILUX 50mm F1.2 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』(朝日新聞社) p.214 に、FD85mm F1.2 S.S.C. Aspherical の収差図は、『レンズテスト[第2集]』(朝日ソノラマ)の p.129 に掲載されています。
もうひとつの方法は、レンズの収差を、意図的に発生させた高次収差で打ち消す、「高次の収差補正」という技術です。SUMMILUX-M 50mm F1.4後期型は第5群の、物体側に向かって凹の曲率の強い接合面で高次収差を発生させて、球面収差および波長による球面収差の差を補正しています(SUMMILUX-R 50mm F1.4 はこの手法を使わず、補正過剰量をごくわずかに抑えてほぼ完全補正としたシンプルなカーブになっています)。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も、おそらくこの技術です。ただし、この手法なら必ずアンダーコレクションになるわけではなく、Sonnar 50mm F1.5 や NIKKOR-S·C 5cm F1.4 は実測データを見ると非常に大きな過剰補正ですし、NIKKOR-S Auto 55mm F1.2 も補正過剰の解像重視設計です。この手法でS字カーブのアンダーコレクションにまとめている国産レンズは、この1972年の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 以前はマクロレンズ以外には、一般撮影用の大口径標準レンズでは例が非常に少なく、1953年に土居良一氏が設計した FUJINON 5cm F1.2(特公昭31-477・米国特許No.2718174)ぐらいではなかったかと思います。
Sonnar 50mm F1.5、NIKKOR-S·C 5cm F1.4、FUJINON 5cm F1.2 の収差図は、『アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』(朝日新聞社)の p.73、p.78、p.77 に、SUMMILUX-R 50mm F1.4 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』 p.125 に、NIKKOR-S Auto 55mm F1.2 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録』(朝日新聞社)p.182 に掲載されています。
ですが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のこの収差補正は、どうも意図して狙ってやったものではなかったようです。「ニューフェース診断室」での測定データについて、後に設計者の中川治平氏自らが『レンズテスト[第1集]』(朝日ソノラマ)の p.168~169 で次のように解説しています。
ボディーに合わせ、当然レンズもコンパクトさが要求される。6群7枚構成の変形ガウスタイプの本レンズは、レンズ先頭からフィルム面までの長さ約81mm。これは同仕様レンズが85mm以上であるのに比べて5mmほど短い。コンパクト化のために屈折率の高いガラスに強い曲率を与えると収差の悪化を招くので、その補正のために「高次の収差補正」を行わざるを得なかったと考えるのが妥当なように思います。
ガウスタイプの標準レンズの設計は100m走に、ズームレンズや広角レンズの設計はマラソンに例えられる。マラソンは大幅な時間短縮が期待できるが、短距離で0.1秒の短縮は容易でない。ガウス型標準レンズを5mmもコンパクト化するのは大変なことである。
断面図は全体に曲率が強いようすを示している。また、球面収差カーブの特異な形状はコンパクト化の苦悩を物語っている。
アサヒカメラ「ニューフェース診断室」の、球面収差以外についての指摘も以下に抜粋しておきます。
画角は公称47度で、最短撮影距離は45㌢。
焦点距離と明るさの実測値は51.6㍉F1.4で、問題はない。
(中略)
放射、同心の両像面は(中略)、半画角20度へんで交わらせてあり、両像面の開き(非点隔差)は小さい方に属する。平均像面は内側に湾曲しているが、その程度も軽微である。
像のゆがみを表す歪曲は(中略)、画面スミ部でマイナス2.0%のタル型で、タル型に許し得る限度に達している。また画面周辺部に行くにつれ、明るさが減る割合を示す開口効率は、画面対角線90%の地点で33%、これは絞り開放の場合、この地点の明るさが画面中心部のそれの3分の1以下に落ちることを意味するが、F1.4の標準レンズとしてはまあまあといったところだろう。
(中略)購入レンズには工作精度の不足にもとづく偏心があって、開放で写した画面の左端の像があまくなったのは残念である。
ほとんど完全な平面に保持されたミニコピーHSフィルムを使って測定した撮影解像力の平均値は(中略)、なかなかよい値を示している。これで偏心さえなかったら、もっとすばらしいデータが得られただろう。とくにF5.6に絞った場合の撮影解像力はきわめて高く、この絞りで実写した写真もたいへんシャープであった。
鏡胴のマウントはバヨネット式で、ボデーへの着脱は簡単である。深度確認用の絞り込みボタンはレンズ側につけられている。鏡胴に刻まれた撮影距離目盛りや絞りの数字は大きくて見やすいが、絞り目盛りに対向する指標だけは、小さすぎて見にくい。
レンズ本体ではないが、黒色プラスチック製のレンズ・キャップがスプリング式に着脱されるのはよいとして、レンズの前ネジとの結合部分が少ないため、指がちょっと勘どころに触れるとすぐはずれ落ちるというのはよくない。
『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』 p.56~57
アサヒカメラ1972年10月号 再録
開口効率 33%という数値は、特公昭50-35813のアサヒカメラ1972年10月号 再録
従って周辺光量も非常に多い。からは掛け離れているように思いますが、特許文書中で比較されている NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 の開口効率は1962年のロットで 32%、それが1965年には 30%に落ちて、1971年も 30%ですから、それに比べれば周辺光量は多いと言えます。
1982年に発売された ZUIKO AUTO-S 50mm F1.2 も、『アサヒカメラ1983年3月号』初出の「ニューフェース診断室」を見ると、球面収差はやはり全域でわずかな補正不足のS字カーブを描いていて、同様の「高次の収差補正」を行っているようです。50mm F1.2 の開口効率は 36%と、銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 に勝ります。ZUIKO AUTO-S 50mm F1.2 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』(朝日新聞社)p.133 に再録されています。
NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 の収差図は、『レンズテスト[第1集]』の p.50、p.104、p.164 に、テスト記事は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録』 p.41、p.72、p.94、p.102 に掲載されています。
NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 の収差図は、『レンズテスト[第1集]』の p.50、p.104、p.164 に、テスト記事は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録』 p.41、p.72、p.94、p.102 に掲載されています。
また、この評で、テストされたシリアルナンバー 100606 の個体に偏心があったことが指摘されていますが、2枚目と3枚目を分離したガウス型レンズの構成について、キヤノンのレンズ設計者の辻定彦氏は『レンズ設計のすべて』(電波新聞社)の p.95 で、一般論としてこう解説しています。
レンズの分割に加えて、さらに高度の収差補正のために前群のメニスカス接合レンズを分離して空気レンズを導入することが行われるが、この部分は偏心精度が厳しくなり勝ちである。そこで設計性能ではハロが多くなり、多少劣ることを承知の上で、当たり外れをなくし最終製品性能を確保するため、敢えて接合のままとしているものも多い。これは、「6群7枚にすれば性能が向上することは分かっているけれど、2枚目と3枚目を分離すると、その部分で偏心を生じた不良品が発生しやすくなるので、量産時の品質のバラツキを避けるために5群7枚のままにしていた製品も多い」と解釈していいと思います。
これで偏心さえなかったら、もっとすばらしいデータが得られただろう。と評された銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(No.100606)の解像力(コントラストがゼロになる解像限界、カットオフ周波数)ですが、絞り開放時に画面中心 180本/mm・全画面平均 112本/mm、F5.6時に画面中心 224本/mm・全画面平均 170本/mm と、偏心があるにもかかわらず高い数値を記録し、また、開放時・F5.6時いずれの場合も、「画面中心が最良となるピント面」と「画面全体が平均的に最良となるピント面」が一致しています。特に、開放時の画面中心の値は、解像重視の補正過剰型である Canon FD50mm F1.4(5群6枚、1971年3月1日発売)の開放時画面中心 200本/mm に迫る数値です。
FD50mm F1.4 の収差図・解像力表は、『レンズテスト[第1集]』 p.158~159 に掲載されています。
以上から、銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(No.100606)の数値をまとめておきます。
51.6mm F1.40
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -2.0%(タル型)
開口効率 33%(画面対角線90%の位置)
解像力
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -2.0%(タル型)
開口効率 33%(画面対角線90%の位置)
解像力
絞り F1.4(開放)
中心部 180本/mm 平均 112本/mm (画面中心が最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
絞り F5.6
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
中心部 224本/mm 平均 170本/mm (画面中心が最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
F5.6の“画面中心が最良となるピント面”は、開放時のそれと一致する。
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
ちなみに、SUMMILUX-M 50mm F1.4(No.2346125)の『アサヒカメラ1972年1月号』初出の測定値をまとめると、以下の通りです。
51.6mm F1.44
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -1.4%(タル型、半画角22.5°において)
開口効率 35%(画面対角線90%の位置)
解像力
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -1.4%(タル型、半画角22.5°において)
開口効率 35%(画面対角線90%の位置)
解像力
絞り F1.4(開放)
中心部 160本/mm 平均 75本/mm (画面中心が最良となるピント面)
中心部 125本/mm 平均 98本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より 0.09mmレンズに近い位置にある。
絞り F5.6
中心部 125本/mm 平均 98本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より 0.09mmレンズに近い位置にある。
中心部 224本/mm 平均 135本/mm (画面中心が最良となるピント面)
中心部 71本/mm 平均 150本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より 0.08mmレンズに近い位置にある。
F5.6の“画面中心が最良となるピント面”は、開放時のそれと一致する。
中心部 71本/mm 平均 150本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より 0.08mmレンズに近い位置にある。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』 p.43~44 の記述に基づく
さて。西ドイツ、ケルンで1972年9月23日に開幕したフォトキナですが、その3日目、9月25日に事件が起こります。オリンパスの出展ブースにいた米谷氏の元に、ライツ社の代表を自称する3人が訪れて、M-1 のカメラ名はドイツの登録商標になっている Leica M3 に抵触しているとする口頭での抗議を行いました。しかしこれは筋の悪い主張で、商標の登録はアルファベット1字+数字1字では新規性がないとして受理されません。従ってそれぞれのカメラの商標は「M-1」「M3」ではなく、「OLYMPUS M-1」「Leica M3」ですから、そもそも抵触するはずがないのです。米谷氏はこのことをライツの3人に対して主張したものの、相手は聞く耳を持たず、強硬に抵触を主張しました。そこで、「M-1」の前に何かもう1字つけ加えるという打開策を提案したところ、3人は矛を収めて引き揚げていきました。
このとき「OLYMPUS M-1」は商標登録申請中で、後に登録されました。
この抗議の裏に何があったのかは全く不明です。ライツはこの年、1972年の6月に、1969年のフォトキナ会期中に交渉を始めて1971年に合意に達し契約に署名していたミノルタとの提携を正式に発表し、この時期は、"Leica MC"のコードネームでライツのヴィリー・シュタイン(Wilhelm Stein)のグループが構想し開発していたレンジファインダー機、小型(Compact)で軽量(Light)で価格も手ごろな“フォルクスライカ”を、ミノルタの提言で「Leica CL」(LEITZ minolta CL)と名付けて、生産をミノルタが担当して発売する準備が進んでいた時期でもあります。小型・軽量のコンセプトを先に実現されたことに苛立ったのか、あるいは、LeicaⅢf と同じ横幅のカメラの名称に「M」を冠したことを、肥満体と化してしまった Leica M5 に対する当てつけと勘ぐったのかもしれません。エーミール・G・ケラーは、ライツも開発計画の再検討を迫られることになったと、『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』(光人社、p.214)に記しています。
この時期のライツは沈みゆく豪華客船のような混乱の最中にありました。1971年に発売した Leica M5 …その巨体が“弁当箱”と揶揄嘲笑されたレンジファインダー機ですが…は、開発にあまりにも時間がかかった上にコストも高すぎ、しかも売れ行きが非常に悪く、1台作るごとに赤字が累積していく始末で1975年に生産を打ち切らざるを得なくなりました。また、ライツに見切りを付けた技術者の退社が続き、社内に保管されていた資料なども多く流出したと伝えられます。その後、1978年には、ウィルド・ライツ・カナダ社で生産が始められた Leica M4-2 で、珍品ライカ、早い話が製造不良品が製品検査を通り抜けて出荷されてしまうという大失態を起こすに至ります。ちなみにこれら事故品は当時のライカマニアがこぞって買い求めて、キレイに売り切っています。
事の顛末と名称変更のことは、フォトキナ終了後にオリンパスの常務会に報告されて了承されたものの、直後の企画会議では結論が出ず、名称立案小委員会が開かれることになりました。10月20日に開かれたその委員会の会議は議論百出で紛糾、名称変更の候補としてAからZまで全アルファベットを当てて検討して、激論の末に「UM」と「OM」が残り、最終的に「OM」が採択されました。この結論を受けて、1973年5月末から、カメラ名は「OM-1」、システム名称は「OM-SYSTEM」へと変更されました。銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も銀枠のまま、光学設計も変わることなく、ただレンズ銘だけが「OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」に変わっています。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F5.6
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ(ISO 200, A mode)
Good Smile Company, 1/8 Scale “初音ミク V4X” (Hatsune Miku V4X)
この銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は放射能レンズ(トリウムレンズ)としても有名です。手持ちの個体(シリアルナンバー 156670)は、アトムレンズのページにも書きましたが、前玉側 6.55 µSv/h・後玉側 0.83 µSv/h のガンマ線を検出しました。ところが、この銀枠モデルは後に硝材が変更されています。
手元にある別の銀枠の個体、シリアルナンバー 5092xx を計測したところ、前玉側 0.08 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、計測時にあらかじめ測っておいたバックグラウンド値(0.08 µSv/h)と変わらない数値を得ました。つまり、放射能レンズではなくなっています。また、写真家の安孫子卓郎氏の『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』によると、銀枠のシリアルナンバー 326264 の個体の放射線量率は前玉側 3.26 µSv/h・後玉側 0.43 µSv/h と明らかにトリウムレンズなのに対して、銀枠のシリアルナンバー 508166 の個体は、前玉側 0.15 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、概ねバックグラウンド値と思われる低い数値になっています。
シリアルナンバー 156670 と同 5092xx のレンズの反射像を比べると、反射像の出方自体は特に違いが見られないことから曲率に目立った変更はないと思われ、しかし前玉の反射像の色がはっきり違う(156670 の前玉側反射像はオレンジ色に近く、5092xx の前玉側反射像は青みが強い)ことからコーティングに違いがある=硝材が透過しやすい色域に違いがあると思われ、このことから、光学設計はそのままで硝材のみ変更されたと断定して、まず間違いないと考えます。安孫子卓郎氏も『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』で、描写に
差異は感じられない。と報告されています。硝材がいつ変更されたのかは、今のところ、シリアルナンバー33万台前後より後、50万前後より前のどこかで変更があっただろうという身も蓋もない推測以上はできかねます。
1973年までに発売が始まった日本製レンズには放射能レンズが多く見られますが、1974年以降に新しく発売されたモデルには見られません。この時期に公害防止を目的とした硝材成分の規制が始まっていますが、経過措置が認められていたらしく、1973年までに発売された放射能レンズの一部は、1975年前後ぐらいまでトリウムガラスのまま生産・販売を継続していたようです。
酸化トリウムを添加した硝材を用いたレンズについて、オールドレンズ関連のサイトなどでは妙な高評価が見られますが、酸化トリウムが使われていたのは、それがモナザイト鉱から容易に分離精製されるため、同様の性能が得られる他の物質に比べて調達価格が安価だったからに過ぎません。松下幸之助の、良いものを潤沢に安く供給するのが生産者の使命とする“水道哲学”が日本の経済界を席巻していたことにも留意しておくべきと思います。
余談ながら、1973年10月に第一次石油危機が起こり、石油価格の高騰は、溶解に重油を多く消費する光学ガラスの価格を急騰させ、世界の光学メーカーの経営を圧迫していきました。日本ではミランダカメラが1976年、ペトリカメラが1977年に倒産に至り、ヤシカはカール・ツァイス財団から1973年夏に突然打診され同年9月19日に合意に達した提携に社運を賭けますが経営状況は悪化の一途をたどり続け、給料の欠配が続いて社員の退社も相次ぐ中、1975年に経営破綻、1983年に京セラに吸収合併されました。ドイツでも「ローライ」のフランケ・ウント・ハイデッケが苦境に陥り、1979年に勃発した第二次石油危機で止めを刺され、1981年に倒産しました。
余談ながら、1973年10月に第一次石油危機が起こり、石油価格の高騰は、溶解に重油を多く消費する光学ガラスの価格を急騰させ、世界の光学メーカーの経営を圧迫していきました。日本ではミランダカメラが1976年、ペトリカメラが1977年に倒産に至り、ヤシカはカール・ツァイス財団から1973年夏に突然打診され同年9月19日に合意に達した提携に社運を賭けますが経営状況は悪化の一途をたどり続け、給料の欠配が続いて社員の退社も相次ぐ中、1975年に経営破綻、1983年に京セラに吸収合併されました。ドイツでも「ローライ」のフランケ・ウント・ハイデッケが苦境に陥り、1979年に勃発した第二次石油危機で止めを刺され、1981年に倒産しました。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F5.6
オリンパスは1975年11月、世界で初めてTTLダイレクト測光を実現した一眼レフ「OM-2」を発売しましたが、ズイコー交換レンズ群の鏡胴デザインが変更されたのはこれよりかなり遅かったらしく、フィルター枠が銀枠ではなく黒枠になったのは、おそらく1977年の後半以降と思われます。OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 もレンズ銘はそのままで黒枠に変わるのですが、その変わり目のシリアルナンバーがはっきりしません。ネット上の中古製品画像を見たところ、シリアルナンバー 532577 の個体(archive.today)は銀枠で、シリアルナンバー 564968 の個体(archive.today、商品ページ中の
製造番号 594968は 564968 の誤記)は黒枠であることから、シリアルナンバー 55万台前後あたりで銀枠から黒枠に切り替わったのではないかと推測します。
ですが、このレンズが変わったのはフィルター枠の色だけではありませんでした。
まず黒枠モデルで目立つ違いは、レンズの長さが長くなったことです。銀枠モデルはマウント面からフィルター枠先端までの長さが公称 36mm、手持ちの銀枠の個体2本を距離指標を無限遠に合わせた状態で実測したところ、36.8~37.0mm でしたが、黒枠モデルを同じ条件で実測したところ、39.8mm ありました。これは単に鏡胴だけ長くなったのではないことは、両者を並べてみると前玉前面の凸面中心部が、黒枠モデルの方が前に出ていることから分かります。質量は銀枠・黒枠とも公称 230g ですが、実測では銀枠が 227g、黒枠が 229g です。
両者を並べてみると、もう一点分かります。前玉前面の凸面の曲率が違い、黒枠モデルの方が曲率が強いのです。これは光源をレンズに当てて反射像を見ても分かります。銀枠モデルと黒枠モデルでは、反射像の出方が大きく違うのです。
長さについて、もうひとつ。レンズマウント外刃の後面から後玉支持枠先端までの長さも違います。銀枠モデルが 1.2mm なのに対し、黒枠モデルは 2.0mm と、0.8mm 長くなっています。つまり、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は銀枠モデルよりバックフォーカスも短くなり、光学系の全長自体が長くなっているのです。
さらに、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が現役製品だった同時代の出版物を調べてみて、レンズ構成図にも違いがあることが分かりました。『アサヒカメラ1972年10月号』の「ニューフェース診断室」に掲載されていた銀枠モデルの構成図では、第4群の接合面が物体側に向かって凹面でしたが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』(毎日新聞社)の p.85 に掲載されている構成図は、第4群の接合面が物体側に向かって凹ではなくなっています。加えて、『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の「各社一眼レフ交換レンズ総カタログ」p.82 のこのレンズの項に、
フローティングと記されているのです。
M-1 発売当時にフローティング機構、当時のオリンパスは「遠距離近距離収差補正機構」と呼んでいましたが、この機構を採用していた銀枠のレンズは、18mm F3.5、24mm F2、28mm F2、50mmマクロ F3.5、85mm F2といったところで、銀枠の 50mm F1.4 には採用されていませんでした。『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記述が事実なら、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は遠距離近距離収差補正機構を採用していることになります。
以上から、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、以前の銀枠モデルとは光学設計が異なっていると考えるほかありません。では、どんな改設計が行われたのでしょうか。
1975年6月14日、銀枠モデルと同じ中川治平氏の光学設計になる大口径標準レンズの特許が出願されました。特願昭50-72257のこの出願は、1976年12月20日に特開昭51-148421の番号で公開され、1983年4月11日に特公昭58-17929として公告、そして日本国特許第1185792号が成立しました。同設計の米国特許はNo.4094588(PDF)、ドイツ特許はDE2626336です。
特公昭58-17929の記述を見てみます。
本発明は(中略)、ガウス型の標準写真レンズが高屈折率のガラスを用いることによって高性能化し、コンパクト化してきた従来の発展を受けつぐと共にレンズ系の全長をそれ程増大させることなしに、従来の欠点であったコマフレアーの除去と球面収差並びに球面収差の色収差を良好に補正した大口径比写真レンズを提供することにある。特公昭58-17929に掲載のレンズ構成図は『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』に一致しますし、
更に本発明は無限遠物体、近距離物体に対する収差を共に良好に補正し得たものである。
無限遠物体、近距離物体に対する収差を共に良好に補正し得たは、『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記述に合致します。
レンズ系の全長をそれ程増大させることなしに、は、黒枠モデルの全長が銀枠モデルより少し長いことに対応しています。
特公昭58-17929の記述から、この改設計は、コマフレアの除去と、球面収差を抑え、同時に波長による球面収差の違いを抑えること、および撮影距離の違いによる収差の変動を抑えることを目的としていたことが分かります。また、特公昭58-17929記載の球面収差図は特公昭50-35813とはやや異なり、g線とd線の曲線がよく揃い、『アサヒカメラ1972年10月号』ニューフェース診断室で実測・掲載されたS字カーブのアンダーコレクションの補正状態によく似ています。実際の製品でもこのアンダーコレクションの球面収差が維持されていたらしいことが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』p.85 の、
各社の標準レンズ中では、開放画質が割によいのが印象に残った。という画質評から伺えます。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F5.6
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 も同様に、銀枠から黒枠に変わる際に光学設計が変更されています。前期・銀枠モデルは特公昭49-27699(1970年5月15日出願)、後期・黒枠モデルの設計は特開昭50-124632(1974年2月14日出願)で、いずれも同じく中川治平氏の設計です。
F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8(5群6枚)も、銀枠モデルと黒枠モデルでは各エレメントの曲率が異なり、2枚目と3枚目の間の空気レンズの形状も異なることから、やはり光学設計が変更されていると考えられます。
F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8(5群6枚)も、銀枠モデルと黒枠モデルでは各エレメントの曲率が異なり、2枚目と3枚目の間の空気レンズの形状も異なることから、やはり光学設計が変更されていると考えられます。
モノコートだった黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、NEW OM-1、NEW OM-2(いずれも1979年3月)や OM-10(1979年6月)の発売より少し遅れて、1979年の夏頃にマルチコーティングを施されて、名称も OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 に変わりました。ズイコー交換レンズ群は広角や望遠にF2の明るさのレンズが揃っていて、それらについてはかなり早い時期からマルチコーティングが施されていましたし、50mm F3.5マクロのマルチコート化も既に行われていましたが、標準レンズや価格を抑えたモデルのマルチコート化は、他社に比べてかなり遅いと言えます。しかしながら、1970年代後半には泥沼化した低価格競争で体力を消耗した企業も多く、10面中8面がモノコートのミノルタ MD W.ROKKOR 35mm F2.8(5群5枚、1977年)のように、マルチコーティングに対して腰が引けたところも多数現れていました。
1978年12月初旬発売の『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』 p.85 と、1979年3月下旬発売の『アサヒカメラ1979年4月増刊号』 p.82 は、ともにレンズ名を「ズイコー50ミリF1.4」としていて、「ズイコーMC24ミリF2」などマルチコートされたレンズにはある“MC” の表示が、この 50mm F1.4 にはありません。『カメラ・レンズ白書 1979年版』の方は、
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』(2001年7月発売)に再録されたアサヒカメラ1972年10月号のテスト記事では、その扉(p.95)に、黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を装着した M-1 のモノクロ写真を掲載しています。その G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 746803 です。
島田和也氏による『実用中古標準レンズ100本ガイド』(学研、2000年11月発売)は、p.46~47 の「オリンパス GズイコーオートS50ミリF1.4」の記事に、シリアルナンバー 748141 の個体の写真を掲載しています。
1979年10月18日に発売された『カメラ毎日 1979年11月号』誌上 p.97 に掲載されているオリンパス NEW OM-2 の広告において、その広告写真上の NEW OM-2 に装着されている ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 765660 のように見えます。
1980年11月発売の『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ』は、p.84 掲載の
これらの記録から、少なくとも 74万8千番台初めまでは G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 だったことが分かり、「シリアル70万番台以上は ZUIKO MC AUTO-S(マルチコート、MC表示あり)」としている オリンパスOMファン や OMマニア の記述に信憑性がないことも分かります。
マルチコート化されたモデルの発売が1970年代末までずれ込んだのは、技術的な問題ではなくコストの問題と見られます。1966年に発売されたハーフサイズ一眼レフ「オリンパス PEN FT」では既に、ファインダー光学系の空気との境界面にマルチコーティングが施されていました。
MD W.ROKKOR 35mm F2.8 のテスト記事・収差図(アサヒカメラ1978年5月号初出)は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』(朝日新聞社)p.102~103 に再録されています。球面収差は、レンズ最周辺で -0.08mm のアンダーコレクションです。
レンズ番号 707112 ・¥26,500(ケース付き)と明記しています。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』(2001年7月発売)に再録されたアサヒカメラ1972年10月号のテスト記事では、その扉(p.95)に、黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を装着した M-1 のモノクロ写真を掲載しています。その G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 746803 です。
島田和也氏による『実用中古標準レンズ100本ガイド』(学研、2000年11月発売)は、p.46~47 の「オリンパス GズイコーオートS50ミリF1.4」の記事に、シリアルナンバー 748141 の個体の写真を掲載しています。
1979年10月18日に発売された『カメラ毎日 1979年11月号』誌上 p.97 に掲載されているオリンパス NEW OM-2 の広告において、その広告写真上の NEW OM-2 に装着されている ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 765660 のように見えます。
1980年11月発売の『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ』は、p.84 掲載の
レンズ番号 795834 ●¥28,500の個体の名称を「ズイコーMC50ミリF1.4」としています。
これらの記録から、少なくとも 74万8千番台初めまでは G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 だったことが分かり、「シリアル70万番台以上は ZUIKO MC AUTO-S(マルチコート、MC表示あり)」としている オリンパスOMファン や OMマニア の記述に信憑性がないことも分かります。
マルチコート化されたモデルの発売が1970年代末までずれ込んだのは、技術的な問題ではなくコストの問題と見られます。1966年に発売されたハーフサイズ一眼レフ「オリンパス PEN FT」では既に、ファインダー光学系の空気との境界面にマルチコーティングが施されていました。
MD W.ROKKOR 35mm F2.8 のテスト記事・収差図(アサヒカメラ1978年5月号初出)は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』(朝日新聞社)p.102~103 に再録されています。球面収差は、レンズ最周辺で -0.08mm のアンダーコレクションです。
黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、それぞれ手元の個体を実測したところ、外形寸法・質量とも全く同じでした。光源の反射像を観察すると、コーティングの違いによる色の違いはありますが、反射像の出方そのものに大きな違いは見つけられませんでした。
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F1.4
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.0
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.8
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F5.6
OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、おそらく1982年に OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 へと名称が再び変わります。この ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の取扱説明書に記載されているレンズ構成図は、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の構成図と同じです。その後、ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は1990年頃に販売を終了します。レンズ銘は変わっても、黒枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計は最後まで引き継がれていたようです。
銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 から最終モデルの OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 まで、光学設計の違いから前期型と後期側の2バージョンに分けられ、前期型はトリウムレンズか否かで2バリエーションに、後期型はモノコートかマルチコートかで2バリエーションに分けられます。後期型の、特にマルチコート化されたバリエーションでは、現存する中古の個体に程度の良いものがかなり少ないようです。
前期型・トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
前期型・非トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
後期型・モノコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
後期型・マルチコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
銀枠 M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1972年7月1日発売)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1973年5月末から)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1973年5月末から)
前期型・非トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(変更時期不明)
後期型・モノコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
黒枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1977年と推定)
後期型・マルチコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4(1979年夏頃から)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1982年と推定)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1982年と推定)
銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と黒枠モデルで長さが違うことは、Vintage Camera Lenses や Olypedia、Photography in Malaysia など、指摘しているところはいくつかありますが、この事実から光学設計の変更をも指摘されているのは、クラカメと旅(OM標準レンズ)のみでした。ファンサイトとしてよく知られていて、検索でも上位でヒットする OMマニア や オリンパスOMファン、これからもOM、OM推進委員会 などは、見た目の違いに注目して細かくバージョン分けされているにもかかわらず、もっと簡単に分かる長さの違いや反射像の違いには気付けないままで、当然ながら光学設計の違いも指摘できていません。
最終モデルの ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の販売終了が一昔前のこととなった2001年11月、カメラやレンズについての文筆活動でも著名な赤城耕一氏は、双葉社から『使うオリンパスOM』を上梓されました。同書 p.52 において赤城先生におかれましては、わずかな補正不足を保ってS字状カーブを描くアンダーコレクションの球面収差を持つ G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を、かくの如くご紹介あそばされていらっしゃいます。
設計当時のほとんどの国産メーカーの標準レンズがそうであったように、このレンズも球面収差は補正過剰気味だ。検索で非常に高い順位でヒットする OMマニア のほか これからもOM などがこの記述を引用しているために、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計への誤解が拡大再生産され広がっていく一方なのは残念です。『使うオリンパスOM』発売の4ヶ月前には、アサヒカメラ1972年10月号の診断室記事や収差図なども再録した『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』が発売されていて、特に これからもOM はトップページでこの『オリンパスの軌跡』を紹介しているにもかかわらず、ページ内の記述にその内容が反映していないのは奇妙に感じます。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』の巻頭 p.4~11 の記事「OMシステム大図鑑」の書き手は赤城耕一氏、p.18~20 の「オリンパスOM-1徹底解剖」の書き手も赤城耕一氏です。ですから、『使うオリンパスOM』執筆時の赤城耕一氏が『オリンパスの軌跡』に再録された測定データをご存じなかったとは思えないのです。
かつては、数多くの交換レンズや各種アクセサリーを揃えて多彩な撮影用途に対応可能なカメラを「システムカメラ」という和製英語で呼び、1960年代から70年代にかけて、各社ともシステムの拡充に力を入れていました。藤田直道氏は『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記事、「35㍉一眼レフ白書・全システム点検とその魅力」(p.37~73)で「システムカメラ」の語について、
いつごろから使われ出したのか、あまり定かではないが、一九六四年ごろではなかったかと思う。としています。同じ記事で同氏はオリンパスの OMシステムを、
オリンパスが顕微鏡のメーカーであるため、とくに接写、拡大撮影のマクロシステム、顕微鏡関係のミクロシステムが充実している。と評しています。
これらは一般的なものだけではなく、専門の用途にも十分に対応できるだけのシステムになっているのが特徴である。
「システムカメラ」というと、“何でも撮れる万能カメラ” とする捉え方が一般的でしたが、米谷美久氏は OMシステムを違う考え方で構築していきました。同じく『アサヒカメラ1979年4月増刊号』掲載の「座談会・各社設計、開発技術陣が語る最新一眼レフの性能比べ」(p.97~105)の中で、米谷美久氏(オリンパス光学 研究開発本部次長)と 倉本善夫氏(ミノルタカメラ 開発部次長・第一開発部門長)は、次のように語っています(肩書きは当時のもの)。
米谷 システムの話が出ましたが、システム=万能みたいに思われていますが、そうではないですね。私はむしろ、システム=専用というふうに解釈してOMというのを展開しています。専用というのは、いろんなシステムを組み合わせて専用カメラになる。これを私はシステムと称していままでやってきているのです。しかし、専用化されてくるだけにやりやすいけれども、ユーザー層がだんだん狭くなってくる。イコール高価につながるという問題があって、メーカーとして非常に悩むところですがね。米谷氏の発言を受けての倉本氏の言葉は、要約すれば「万能は専用に劣る」という一般常識の再確認に帰結しています。
倉本 ミノルタX-1はシステムカメラで、ファインダーを交換して、露出制御のほうまで組み合わせることをやっていますが、それでも引き算的な要素があって、やはり、あっちこっちに割り切りがありますし、それぞれの専用機には、かなわないところがありますね。ただ専用機になりますと高いものにつく。なんとか使える程度で写してもらえれば、経済的な効果は高いということはいえると思いますが、それぞれに向いたカメラをつくるのが、やはりいちばん使いやすいものになるとは思います。
このレンズを設計した中川治平氏は、1977年にオリンパスを退社し、中川レンズデザイン研究所を設立されました。小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』(朝日新聞社)で、レンズ設計者の育成に尽力した功績者として、MAMIYA-SEKOR 80mm F2.8 を設計し改良を続けたことでも知られるマミヤ光機の岡崎正義氏と、そして、この中川治平氏の二人を挙げています。中川氏の薫陶を受けたレンズ設計者は非常に多いそうですが、特にシグマの設計能力の向上に大きな功績があったといいます。事実、Google Patents で Inventor のキーワードを「Jihei Nakagawa」として検索すると、オリンパスの他、シグマの特許がたくさんヒットします。
1990年、ライカカメラ社はシグマの SIGMA 28-70mm F3.5-4.5UC(¥35,000)を、光学設計はそのままで鏡胴デザインのみ異なる VARIO-ELMAR-R 28-70mm F3.5-4.5 としてOEM供給を受けて、シグマの約5倍の¥165,000 で発売しました。『カメラと戦争』朝日文庫版 p.165 に曰く、
このズームレンズの設計者、金井慎治氏もまた中川門下生の一人とあります。
SIGMA 28-70mm F3.5-4.5UC と VARIO-ELMAR-R 28-70mm F3.5-4.5 のテスト記事・収差図(アサヒカメラ1991年8月号初出)は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』 p.127~133 に再録されています。
ガラスモールド非球面レンズの生産技術と非球面の精密計測技術を開発・確立したパナソニック(2008年10月から。旧社名は松下電器産業株式会社)も、中川治平氏の指導を受けた企業の一つです。1980年、松下電器産業がレンズ設計グループを立ち上げるためにレンズ設計技術の指導者を求めて小倉磐夫教授に接触した際、中川氏を推した小倉教授は、その理由に、中川氏の設計実力は世界の五指に入ると評価していたことに加えて、後進に技術の伝承を繋いでいくことが進歩に繋がるという信念の持ち主であることを挙げていたと、パナソニックの関係者は『非球面モールドレンズに挑む!』(日刊工業新聞社)で伝えています。
中川氏が松下電器のレンズ設計を指導する中で提示した試案に、従来なら13~15枚のレンズ構成となる6倍ズームレンズを、非球面を3面導入して9枚に減らしたものがあったとのことです。特許出願はされませんでしたが、この設計案は世界初の非球面ズームレンズの実設計だったと見られています。中川氏の指導を受けた松下電器産業は、1990年6月にビデオカメラでは初めて非球面レンズを採用して、ガラスモールド非球面レンズ2枚を使ったズームレンズを搭載した「NV-S1」“ブレンビー”を発売、2001年7月24日にはライカカメラ社との提携を発表しました。
2018年9月25日に発表されたパナソニック、シグマとライカカメラ社の「Lマウントアライアンス」も、遡って見てみれば、中川治平氏の指導の賜と言えるのかもしれません。
1972年に銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が発売された当時、すなわち、Carl Zeiss CONTAX Planar T* 50mm F1.4 が発売される1975年11月より前に、オリンパスの他に、国内他社からも過剰補正型の設計を脱した標準レンズがいくつか出てきました。1969年10月21日発売の東京光学・UV TOPCOR 50mm F2(4群6枚)、1972年9月の富士写真フイルム・EBC FUJINON 50mm F1.4前期型(6群7枚)、1973年4月のミノルタ・MC ROKKOR-PG 50mm F1.4(5群7枚)で、オリンパス以外はレンズ最外縁でほぼ完全補正とするシンプルなフルコレクションにまとめていました。これに対し、同じ時期のツァイスの HFT Planar 50mm F1.4 は過剰補正型(オーバーコレクション)の日本的な解像重視設計だったことは以前にも書いたとおりですし、HFT Distagon 35mm F2.8 や Planar 50mm F1.8(HFTではないモノコートモデル、ドイツ特許DE2114176・英国特許No.1339225・特開昭47-37418・特公昭51-21575・日本国特許第847016号)も、やはりオーバーコレクションの解像重視設計、CONTAX Planar T* 85mm F1.4(ドイツ特許DE2315071・米国特許No.3948584(PDF)・特開昭50-8527)も、オーバーコレクションタイプです。
UV TOPCOR 50mm F2 の収差図は、『レンズテスト[第1集]』の p.146 に掲載されています。EBC FUJINON 50mm F1.4前期型の収差図は、『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』(朝日ソノラマ)p.121 と『レンズテスト[第1集]』 p.170 に掲載されています。MC ROKKOR-PG 50mm F1.4 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』 p.70 と『レンズテスト[第1集]』 p.172 に掲載されています。Planar 50mm F1.8 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち』(朝日新聞社)p.103 と『レンズテスト[第2集]』 p.80 に、HFT Distagon 35mm F2.8 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち』 p.127 に掲載されています。CONTAX Planar T* 85mm F1.4 の収差図や評は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡』(朝日新聞社)p.57~58 に収録されています。
しかし、東京光学は1974年4月の HI TOPCOR 50mm F2(4群6枚)で、富士写真フイルムも1974年4月の EBC FUJINON 50mm F1.4後期型(6群7枚)で、ミノルタは1977年の MD ROKKOR 50mm F1.4前期型(5群7枚・フィルター径55mm)で、それぞれ過剰補正型に戻りました。1970年代の早い時期から35mm判一眼レフ用のF1.4クラス標準レンズを補正過剰に戻すことなくコントラスト重視を一貫して維持し続けたのは、国内メーカーでは、おそらくオリンパスのみと見られ、日独両国を通して見ても、エルンスト・ライツとオリンパスの2社のみと思われます。
HI TOPCOR 50mm F2 と EBC FUJINON 50mm F1.4後期型の収差図は、『カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76』(朝日ソノラマ)p.60、p.68 に、MD ROKKOR 50mm F1.4前期型の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』 p.95 に掲載されています。
現在、オールドレンズを愛好する人々の間では、しばしば “日本の6群7枚構成の標準レンズは CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の模倣” などと言われます。なるほど、確かに Planar T* 50mm F1.4 を意識した設計があることは事実(例えば、ミノルタ・山口民和設計の特開昭53-117420、1977年3月23日出願)ではありますが、それを大風呂敷を広げるようにして一般化するのは果たして適切と言っていいものかどうか、首を傾げるところです。
キヤノンの伊藤宏氏は、アサヒカメラ1993年12月増刊『郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』掲載の座談会(p.119~129)で、
日本人にはドイツのレンズがいいという先入観がありますからね。と語っていましたが、そのようにドイツのブランドを崇める厚い信仰は、現代日本のオールドレンズ愛好者の少なくない一部にカリカチュアライズされた形で継承されていて、オールドレンズを取り上げているネット上のサイトを見たり、オールドレンズ本やライカ本などに目を通すと、時にドイツのブランドやドイツのごく一部のレンズ設計者への歪な崇拝に出会って、勝手に盛り上げたロマンティシズムに自身が絡め取られて溺れ沈んでいくような、荒涼とした知の墓場にも似た文章に、名状しがたい気分を覚えることがあります。
前述のライツとミノルタの提携の際、ライツは1970年に日本へトップの技術者を二人派遣して、日本の光学業界の技術水準を調査しています。その調査でライツは、日本の技術レベルはライツの水準と変わらず、レンズの性能は超一級で、特に小口径と望遠関係で優れており、一眼レフや量産システムも際だって優秀という結論に達しています(『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』 p.209)。その提携のもう一方の当事者であるミノルタ側では、年配の技術者の中に、レンズの相互乗り入れでミノルタ側に持ち出しがあっても恩返しするべきと考えて提携に好意的な人たちがいた一方、若手の技術者は冷ややかだったと伝えられます。ミノルタのレンズ設計者、小倉敏布氏は、ライツが欲しがるレンズは多いが、ミノルタが欲しいレンズはほとんどない、ライツには“書画骨董の類”は多いが没落ぶりは想像以上と感じたといいます(草思社 『めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡』 p.255~262・草思社文庫版 p.293~301)。これはツァイスではなくライツの話ですが、しかしこの通り、1970年代を迎えるよりも前に、日本のカメラ・レンズ業界はドイツを模倣する段階をとっくに卒業していたのです。
CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の設計に当たる、カール=ハインリヒ・べーレンス(Karl-Heinrich Behrens)とエルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel)によるドイツ特許DE2232101C2(1972年6月30日 出願)・米国特許No.3874771(PDF)・特公昭58-57725(日本国特許第1233035号)から、この特許が引用している文献を見ていくと、
米国特許No.2735340(1954年6月25日 出願)
米国特許No.2895379(1955年12月30日 出願)
ドイツ特許DE1170157(1959年5月16日 出願)
特公昭40-386(1962年3月13日 出願)
ドイツ特許DE1472185
特公昭41-17176(1963年2月18日 出願)
特公昭42-11291(日本国特許第507997号、1964年2月4日 出願)
特公昭42-25212(日本国特許第518412号、1964年12月27日 出願)
米国特許No.3451745・ドイツ特許DE1547118
ドイツ特許DE1277580(1966年1月22日 出願)
特公昭44-15515(日本国特許第583021号、1966年4月22日 出願)
特公昭45-39873(日本国特許第610313号、1967年4月28日 出願)
米国特許No.3519333
ドイツ特許DE1268873・米国特許No.3552829(1967年12月9日 出願)
ドイツ特許DE1269385・米国特許No.3552833(1967年12月30日 出願)
実公昭47-19025(実用新案登録第988843号、1968年6月3日 出願)
特公昭49-27699(日本国特許第764949号、1970年5月15日 出願)
米国特許No.3743387
特公昭54-43386(日本国特許第1019833号、1970年12月25日 出願)
米国特許No.3738736
イーストマン・コダック(Eastman Kodak): ジョージ・H・エイクリン(George H. Aklin)
米国特許No.2895379(1955年12月30日 出願)
テーラー・テーラー&ホブソン(Taylor, Taylor & Hobson): ゴードン・ヘンリー・クック(Gordon Henry Cook)
ドイツ特許DE1170157(1959年5月16日 出願)
カール・ツァイス(Carl Zeiss): ヨハネス・ベルガー(Johannes Berger),ギュンター・ランゲ(Günther Lange)
Contarex Planar 55mm F1.4(5群7枚)
Contarex Planar 55mm F1.4(5群7枚)
特公昭40-386(1962年3月13日 出願)
ドイツ特許DE1472185
日本光学: 脇本善司,清水義之
NIKKOR-S Auto 50mm F1.4(5群7枚)
NIKKOR-S Auto 50mm F1.4(5群7枚)
特公昭41-17176(1963年2月18日 出願)
オリンパス: 坂元悟
G.Zuiko Auto-S 40mm F1.4(6群7枚)
G.Zuiko Auto-S 40mm F1.4(6群7枚)
特公昭42-11291(日本国特許第507997号、1964年2月4日 出願)
日本光学: 松浦睦彦
特公昭42-25212(日本国特許第518412号、1964年12月27日 出願)
米国特許No.3451745・ドイツ特許DE1547118
旭光学工業: 風巻友一,高橋泰夫
ドイツ特許DE1277580(1966年1月22日 出願)
カール・ツァイス: ヘルムート・アイスマン(Helmut Eismann)
特公昭44-15515(日本国特許第583021号、1966年4月22日 出願)
キヤノン: 田島晃
特公昭45-39873(日本国特許第610313号、1967年4月28日 出願)
米国特許No.3519333
旭光学工業: 高橋泰夫
ドイツ特許DE1268873・米国特許No.3552829(1967年12月9日 出願)
エルンスト・ライツ(Ernst Leitz): ハインツ・マルカルト(Heinz Marquardt)
SUMMILUX-R 50mm F1.4(6群7枚)
SUMMILUX-R 50mm F1.4(6群7枚)
ドイツ特許DE1269385・米国特許No.3552833(1967年12月30日 出願)
実公昭47-19025(実用新案登録第988843号、1968年6月3日 出願)
小西六写真工業: 木下三郎
HEXANON AR 57mm F1.2(6群7枚)
HEXANON AR 57mm F1.2(6群7枚)
特公昭49-27699(日本国特許第764949号、1970年5月15日 出願)
米国特許No.3743387
オリンパス: 中川治平
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 銀枠(6群7枚)
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 銀枠(6群7枚)
特公昭54-43386(日本国特許第1019833号、1970年12月25日 出願)
米国特許No.3738736
日本光学: 清水義之
と、15の光学設計が引用され,そのうち日本の設計は、5群7枚設計が1、6群7枚構成の設計が8、合わせて9と、全15の内の6割を占めています。このことから、ツァイスの Planar T* 50mm F1.4 の設計は、日本のレンズ設計の強い影響下にあると言っていいと考えます。
この6群7枚の変形ガウスタイプの構成について、日本国内のオールドレンズ関連のサイトでは、これにアルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)の5群6枚のレンズ名を与えて「ウルトロン型」などとする呼び方が見られますが、この構成が成立する過程にトロニエの設計の直接の関わりはなさそうです。ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した5群6枚構成は、オールドレンズを愛好する人々の間では驚天動地の革命的な一大パラダイム転換であったかの如くに非常に大袈裟に語られがちですが、しかしルドルフ・キングズレークは『写真レンズの歴史』(朝日ソノラマ)の p.123 で、その構成のレンズが1930年代初めに多数出てきたと、ごく短く、軽く流すように書いています。接合を分離してそれぞれの面に異なる曲率を与えれば収差がよりよく補正できることは既知の事柄だったようです。トロニエは1930年代半ばになって、そのアイディアを後追いした設計者の一人と見られます。
『写真レンズの歴史』は第14章に、光学ガラスやレンズの発展に寄与した設計者や製作者を選んで顕彰した「人物略伝」を記していますが、そこにトロニエの項はありません。ダブルガウス第2群の接合メニスカスを分離して空気レンズを挟む手法を、コマ収差を補正する技術として体系的に確立したのは、ミノルタのレンズ設計者の松居吉哉氏とする見方が、『ミノルタかく戦えり』(朝日ソノラマ)p.130~136 に述べられています。
CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の設計も、それに先立つヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 も、確かに5群6枚の設計も引用してはいますが、共通するのはジョージ・H・エイクリンによる設計であり、ヘルムート・アイスマンの方はもうひとつ、ライツのウォルター・マンドラーとエーリヒ・ヴァークナー(Erich Wagner)のドイツ特許DE1064250(1958年7月21日出願)も引用しているものの、いずれもトロニエの設計は引用していません。
ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)の1930年の設計に基づく Xenon 5cm F1.5(米国特許No.2019985 ・英国特許No.373950)は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割して5群7枚構成としたガウスタイプの最初期の設計のひとつですが、1960年代初めになって、日本光学の脇本善司と清水義之の両氏によって、この構成がバックフォーカスの長い一眼レフでF1.4の明るさの標準レンズを、58mm や 55mm にすることなく 50mm で実現できるものであると突き止められました(特公昭40-386、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4)。
旭光学の風巻友一と高橋泰夫の両氏が出願した6群7枚構成の米国特許No.3451745 と、ヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 を見ると、ともにオットー・ツィンメルマン(Otto Zimmermann),グスタフ・クライネベルク(Gustav Kleineberg),オイゲン・ヘルマニ(Eugen Hermanni)の3名による5群7枚の設計(ドイツ特許DE1045120 ・米国特許No.3012476)を引用しています。つまり、この6群7枚構成は5群7枚構成から派生して、その5群7枚の第2群の接合メニスカスを分離したものです。
なお、このオットー・ツィンメルマン他による特許を、『カメラマンのための写真レンズの科学』は Summarit 5cm F1.5 の設計としています(p.132)。これに従うなら、6群7枚構成に有名なレンズの名前を付けて呼びたいけれど日本のレンズ名では呼びたくない、舶来レンズの名前でないと絶対にイヤだというのであれば、ウルトロンにはご遠慮頂いて、「変形ズマリット型」あたりにしておくのが無難だろうと思います。ただし、写真撮影用レンズの光学設計や歴史を解説した書籍を見ると、5群6枚であれ5群7枚であれ6群7枚であれ、ダブルガウスの最後の正レンズを分割して2枚にした構成も、ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した構成も、「ダブルガウス」「ガウスタイプ」「ガウス型」ないしは「変形ガウスタイプ」「変形ガウス型」としか呼ばれていません。構成分類名称としての「ウルトロン型」とか「変形ズマリット型」などという呼称は存在しません。つまるところ、「ウルトロン型」であれ「変形ズマリット型」と呼ぶのであれ、または他のレンズ名を付けて呼ぶとしても、それらは学問的な裏付けを欠く、オールドレンズ・コレクターの自己満足的な呼び方でしかないことは自覚しておくべきと思います。
作例について。
オリンパスは、このレンズをフォーサーズやマイクロフォーサーズで使用する際の推奨F値を F2.8~F8 としていて、その範囲外での使用は勧められていません。範囲外のF値で撮影した画像は、レンズ設計時に想定されていない画質になっている可能性があります。この推奨F値は、あくまでもフォーサーズ、マイクロフォーサーズの場合に限られるものなので、35mmフルサイズ・デジタルカメラでの使用はF値にかかわらず想定外使用になると思われます。従って、これら非推奨の環境で得られた画質を以てレンズを評価することは慎重であるべきと考えます。
編集履歴:
2019年1月14日 公開
参考資料(順不同):
カメラマンのための写真レンズの科学(吉田正太郎・地人書館・ISBN978-4-8052-0561-7 C3053 ¥2000E・1997年6月20日 新装版初版第1刷,2014年6月10日 新装版初版第5刷)
新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1995年10月17日 新装版第1刷)
朝日選書684 国産カメラ開発物語 カメラ大国を築いた技術者たち(小倉磐夫・朝日新聞社・ISBN4-02-259784-4 C0350 ¥1300E・2001年9月25日 第1刷)
カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦(小倉磐夫・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261309-2 C0120 ¥580E・2000年9月1日 第1刷)
ライカとその時代(酒井修一・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261308-4 C0120 ¥880E・2000年9月1日 第1刷)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272128-6 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代② F4~F100「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272129-4 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272139-1 C9472 ¥1800E・2000年10月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272141-3 C9472 ¥1800E・2001年3月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272145-4 C9472 ¥1800E・2001年8月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272146-4 C9472 ¥1800E・2001年12月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち(朝日新聞社・ISBN4-02-272151-0 C9472 ¥1800E・2002年3月1日発行)
アサヒカメラ 1979年4月増刊号 35㍉一眼レフのすべて(朝日新聞社・雑誌01404-4・1979年4月5日発行)
アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003021-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第2集〕 話題のカメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003022-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76(朝日ソノラマ・0072-003047-0049・1975年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第4集〕 カメラ診断室'77(朝日ソノラマ・0072-003055-0049・1976年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ5 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03173-5 C0072 ¥1600E・1983年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ6 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03174-3 C0072 ¥1600E・1983年12月31日発行)
クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)
クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ·キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-22 レンズテスト[第1集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12032-0 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-23 レンズテスト[第2集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12033-9 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-33 一眼レフ戦争とOMの挑戦 オリンパスカメラ開発物語(米谷美久・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12043-6 C0072 ¥1800E・2005年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-41 トプコンカメラの歴史 カメラ設計者の全記録(白澤章成・朝日ソノラマ・ISBN978-4-257-12051-3 C0072 ¥1900E・2007年4月20日 第1刷)
カメラ毎日 1979年11月号(毎日新聞社・雑誌02311-11・1979年10月18日発売・1979年11月1日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版(毎日新聞社・雑誌02312-12・1978年12月31日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ(毎日新聞社・雑誌02312-12・1980年12月5日発行)
CAPA特別編集 カメラGET!スーパームック④ 実用中古標準レンズ100本ガイド(島田和也・学研・ISBN4-05-602301-8 C9472 ¥1400E・2000年11月発売)
めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡(神尾健三・草思社・ISBN4-7942-1256-9 C0034 ¥1800E・2003年11月7日 第1刷)
ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密 Leica im Spiegel der Erinnerungen(エーミール・G・ケラー Emil G. Keller・竹田正一郎 訳・光人社・ISBN978-4-7698-1410-8 C0098 ¥2500E・2008年10月7日発行)
写真工業別冊 復刻版 ライカの歴史(中川一夫・写真工業出版社・雑誌04420-11 T1004420113905・1994年11月30日発行)
カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス・レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)
レンズ設計のすべて[光学設計の真髄を探る](辻定彦・電波新聞社・ISBN4-88554-921-3 C3055 ¥3200E・2006年9月10日 第1版 第1刷)
非球面モールドレンズに挑む! ―歴史を変えたパナソニックの技術者たち―(パナソニック スーパーレンズ研究会 著・中島昌也,長岡良富 編・日刊工業新聞社 B&Tブックス・ISBN978-4-526-06836-2 C3034 ¥2400E・2012年2月28日 初版1刷)
光学の知識(山田幸五郎・東京電機大学出版局・ISBN4-501-60390-9 C3042 P3296E・1966年2月25日 第1版1刷,1996年11月20日 第1版19刷)
科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日)
カメラ総合カタログ第103号(日本写真機工業会 宣伝専門委員会・1992年2月)
アトムレンズの研究 その違いはあったのか(安孫子卓郎・Amazon Kindle版・2015年9月)
オリンパスグループ企業情報サイト
クラカメと旅
Olypedia
Vintage Camera Lenses
ARTICOLI TECNICI DI ARGOMENTO FOTOGRAFICO by MARCO CAVINA
「OLYMPUS OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」分解・清掃、コトブキヤ「我那覇響」撮影 - ヨッシーハイム
ニコンカメラの小(古)ネタ(Web Archive)
カメラのキタムラ ネット中古
Leica Wiki (English)
Konica中文资料站
ニッコール千夜一夜物語(Web Archive)
アストロフォトクラブ(Astro Photo Club)
株式会社オハラ:光学ガラスの硝種と性質
パナソニック株式会社
テーラーホブソン史
消える平安朝の大壁画 ホテルオークラ東京建て替え - NIKKEI STYLE
新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1995年10月17日 新装版第1刷)
朝日選書684 国産カメラ開発物語 カメラ大国を築いた技術者たち(小倉磐夫・朝日新聞社・ISBN4-02-259784-4 C0350 ¥1300E・2001年9月25日 第1刷)
カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦(小倉磐夫・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261309-2 C0120 ¥580E・2000年9月1日 第1刷)
ライカとその時代(酒井修一・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261308-4 C0120 ¥880E・2000年9月1日 第1刷)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272128-6 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代② F4~F100「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272129-4 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272139-1 C9472 ¥1800E・2000年10月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272141-3 C9472 ¥1800E・2001年3月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272145-4 C9472 ¥1800E・2001年8月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272146-4 C9472 ¥1800E・2001年12月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち(朝日新聞社・ISBN4-02-272151-0 C9472 ¥1800E・2002年3月1日発行)
アサヒカメラ 1979年4月増刊号 35㍉一眼レフのすべて(朝日新聞社・雑誌01404-4・1979年4月5日発行)
アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003021-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第2集〕 話題のカメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003022-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76(朝日ソノラマ・0072-003047-0049・1975年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第4集〕 カメラ診断室'77(朝日ソノラマ・0072-003055-0049・1976年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ5 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03173-5 C0072 ¥1600E・1983年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ6 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03174-3 C0072 ¥1600E・1983年12月31日発行)
クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)
クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ·キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-22 レンズテスト[第1集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12032-0 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-23 レンズテスト[第2集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12033-9 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-33 一眼レフ戦争とOMの挑戦 オリンパスカメラ開発物語(米谷美久・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12043-6 C0072 ¥1800E・2005年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-41 トプコンカメラの歴史 カメラ設計者の全記録(白澤章成・朝日ソノラマ・ISBN978-4-257-12051-3 C0072 ¥1900E・2007年4月20日 第1刷)
カメラ毎日 1979年11月号(毎日新聞社・雑誌02311-11・1979年10月18日発売・1979年11月1日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版(毎日新聞社・雑誌02312-12・1978年12月31日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ(毎日新聞社・雑誌02312-12・1980年12月5日発行)
CAPA特別編集 カメラGET!スーパームック④ 実用中古標準レンズ100本ガイド(島田和也・学研・ISBN4-05-602301-8 C9472 ¥1400E・2000年11月発売)
めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡(神尾健三・草思社・ISBN4-7942-1256-9 C0034 ¥1800E・2003年11月7日 第1刷)
ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密 Leica im Spiegel der Erinnerungen(エーミール・G・ケラー Emil G. Keller・竹田正一郎 訳・光人社・ISBN978-4-7698-1410-8 C0098 ¥2500E・2008年10月7日発行)
写真工業別冊 復刻版 ライカの歴史(中川一夫・写真工業出版社・雑誌04420-11 T1004420113905・1994年11月30日発行)
カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス・レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)
レンズ設計のすべて[光学設計の真髄を探る](辻定彦・電波新聞社・ISBN4-88554-921-3 C3055 ¥3200E・2006年9月10日 第1版 第1刷)
非球面モールドレンズに挑む! ―歴史を変えたパナソニックの技術者たち―(パナソニック スーパーレンズ研究会 著・中島昌也,長岡良富 編・日刊工業新聞社 B&Tブックス・ISBN978-4-526-06836-2 C3034 ¥2400E・2012年2月28日 初版1刷)
光学の知識(山田幸五郎・東京電機大学出版局・ISBN4-501-60390-9 C3042 P3296E・1966年2月25日 第1版1刷,1996年11月20日 第1版19刷)
科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日)
カメラ総合カタログ第103号(日本写真機工業会 宣伝専門委員会・1992年2月)
アトムレンズの研究 その違いはあったのか(安孫子卓郎・Amazon Kindle版・2015年9月)
オリンパスグループ企業情報サイト
クラカメと旅
Olypedia
Vintage Camera Lenses
ARTICOLI TECNICI DI ARGOMENTO FOTOGRAFICO by MARCO CAVINA
TEST n° 19 - OLYMPUS OM ZUIKO 55mm f/1,2 TESTATO
I 50mm PER LEICA A TELEMETRO
LEITZ SUMMILUX
LEICA NOCTILUX
I 50mm PER LEICA A TELEMETRO
LEITZ SUMMILUX
LEICA NOCTILUX
「OLYMPUS OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」分解・清掃、コトブキヤ「我那覇響」撮影 - ヨッシーハイム
ニコンカメラの小(古)ネタ(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1の三面図など(Web Archive)
最後のM-1広告(Web Archive)
TTLダイレクト測光とは(Web Archive)
ニューフェース診断室 オリンパスペン(Web Archive)
新製品メモ 「フジノンF1.2 50mm」(Web Archive)
超大口径レンズの性能拝見(Web Archive)
今、再び、「時の話題」レンズにも放射能(Web Archive)
New Nikkorの「S」タイプ(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1の三面図など(Web Archive)
最後のM-1広告(Web Archive)
TTLダイレクト測光とは(Web Archive)
ニューフェース診断室 オリンパスペン(Web Archive)
新製品メモ 「フジノンF1.2 50mm」(Web Archive)
超大口径レンズの性能拝見(Web Archive)
今、再び、「時の話題」レンズにも放射能(Web Archive)
New Nikkorの「S」タイプ(Web Archive)
カメラのキタムラ ネット中古
Leica Wiki (English)
Leica Lists
50mm f/1.4 Summilux-M II
50mm f/1.2 Noctilux
Xenon f= 5 cm 1:1.5
Summarit f= 5 cm 1:1.5
50mm f/1.4 Summilux-R I
50mm f/1.4 Summilux-M II
50mm f/1.2 Noctilux
Xenon f= 5 cm 1:1.5
Summarit f= 5 cm 1:1.5
50mm f/1.4 Summilux-R I
Konica中文资料站
ニッコール千夜一夜物語(Web Archive)
第十六夜 Ai Noct Nikkor 58mm F1.2(Web Archive)
第四十四夜 Nikkor-S Auto 50mm F1.4(Web Archive)
第四十九夜 Nikkor-S Auto 55mm F1.2(Web Archive)
第四十四夜 Nikkor-S Auto 50mm F1.4(Web Archive)
第四十九夜 Nikkor-S Auto 55mm F1.2(Web Archive)
アストロフォトクラブ(Astro Photo Club)
株式会社オハラ:光学ガラスの硝種と性質
パナソニック株式会社
テーラーホブソン史
消える平安朝の大壁画 ホテルオークラ東京建て替え - NIKKEI STYLE